【スナック愛と毒】想像力と言葉のお話
愛毒者の皆さま、今晩は。
いろんなSNSのプロフィールに書いている私のスナックのママになる夢って、もしかしてnoteで開業しちゃえば叶うんじゃないかしらということでシリーズ化することにしました。笑
ここではゆきママというキャラクターに扮して
私が普段から考えていること、ふと思いついたことをつらつら書いていくシリーズにしていきたいと思います。
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さて、私は普段からよく例え話をします。
誰かに分かって欲しくて話しているときだったり、どうしても愚痴をこぼしたいときや弱音を吐きたいときも。
せっかく同じ言語を扱う国で生まれ育っているのだから、伝えたい相手に伝わりやすい言葉を選んで話がしたいと思っています。
「例えばその相手が家族だったら」
「例えばそこが会社だったら」
6歳の甥っ子でも、生徒だった中学生でも、年上の職場のおじさんでも
イメージしやすいように、その人に伝わりやすい言葉を選びたいと、自然と頭を使っているんだと思います。
そして私が大切にしていることは、「想像力」と「妄想力」を働かせ続けることです。
「もし、私があなただったら」
「もし、相手がこう思っていたとしたら」
「もし、そこに誰もいなければ」
いろんなタラレバをよく考えるんです。
私は、母親から
「自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけません」と言われて育ちました。
純粋にその教えを信じて生きていた小中学校時代、狭すぎる奈良の田舎で、私だけが人に気を遣っているようで、とても生き苦しかったのです。
「みんなは私の嫌なことするやん」と。
結果、人づきあいがうまくできないまま大人になり、コロナで引きこもることになったつい最近ふと気付いたことが、
「“されて嫌なこと”って人によって違うくない?」です。
それから私は人と意見交換をするときや、普段何気ない会話をするときも
自分の中にある想像力をめいいっぱい使って持っている言葉を駆使して
その人は何が嫌いなのか、何をされたら嫌なのかを聞いて、たくさん考えます。
且つ、その人のされて嬉しいこと、言われて幸せになる言葉も一緒に探せたら私も嬉しくなれるのです。
でもきっと昨今、こんな風に相手の喜ぶ顔が見られると嬉しいと思える人が少なくなってきているんじゃないかな、と思います。
何事もまずは自分への見返りを求めて生きて、他人への奉仕精神が持てなくなっている感じがするのです。
想像力の欠如が生んだ悲劇です。
残念ながら普段から何も考えていない人はこの件に悩みもしないので、一生この記事にたどり着くことはないんでしょうけどね。皮肉なことに。
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