手ごね寿司の向こう側には、ずっとそこにニコニコ、ソワソワ笑っている義父がいる。
戻した後のイメージの目算を誤り、作り過ぎてしまった大量の切り干し大根煮を目の前に途方に暮れる、、、そんな事が、女の人生には、一度や二度はあるものです。
はて、どうするか。
冷凍庫には大量のふるさと納税の返礼品で頂いたカツオのたたき。
今日明日でケリをつけなければならない三つ葉。
そうだ、手ごね寿司!
なんか、かんぴょう煮って切干大根煮と大差ない気が?
…つう事で、卵を焼いて、三つ葉を茹でて、カツオを醤油と味醂とワサビでつけて、酢飯にごまとあえて作ってみました。
思ったより切干大根の存在感はあまり無かったようで、切干大根がどうも苦手な長女が感じなくて美味しいよ!とのこと。
よかったのか、わるかったのか…?
…出しゃばるくらいなら、ま、いっか。
名脇役と評しておきましょう。
三つ葉の茹でたのが、彩りと風味で中々良い仕事をしてくれるんです。
味にうるさかった亡くなった義父が私が作った料理で唯一、「これうまいよ!」と言ってくれたのが、このミツバを散らした手ごね寿司でした。(ちゃんと干瓢と椎茸を煮た正規版!)
長女の初雛のお祝いの日、ニコニコ、ソワソワ、嬉しそうに寿司桶からお茶碗によそってくれた姿が懐かしくてふと涙🥲。
とにかく厳しい人で亭主関白を絵に描いたような義父と会うと、わたしはいつも緊張していた。
適当で気ままな我が実家とは正反対の緊張感漂う環境に、行くのも億劫な時期もあった。
子供らが小さい頃には、毎年毎年、夏には一週間、正月には3日間、ささやかな嫁の勤めを果たしに行った。
下の息子が生まれた時、義父はしばらく義母と共に我が家に滞在していた。
私が生まれたての息子を連れて病院から帰ってくると庭に置いていた睡蓮鉢の中が泥で真っ黒に濁っていて、飼っていた数匹のメダカが死にかけていた。
理由を聞くと、義父が睡蓮の苗が臭いと言って、中庭に捨てた為だと言うことだった。
私は、メダカを作っておいたひなた水に移し、庭の睡蓮の苗を拾い、買った際に説明された睡蓮の苗は臭うものであることを説明しながら、静かに泣いた。
義父は良かれと思ってやったと最初は言い訳を言っていたが、私が黙って泣いているのを見て、申し訳なさそうに項垂れた。
凍りつくような空気が漂った。
50を過ぎた今ならば、大人として取り繕ったと思う。
大丈夫ですよと。
あーこれはこういうものらしいですよと。
出来るだけ平然と。
当時義父は病気を患い体力も落ちていて、それでも孫の出生の為、大阪からわざわざ、東京まで泊まり込みで来てくれていた。
その時の私にとって、その睡蓮鉢はとても大事にしていた宝物だったので、すこし義父を懲らしめてやりたい気分になり、泣くという意地悪をした。
今時が経つと、そう生きてきた義父を責めるより、私がいっとき上手くやり過ごせばよかったと思う。
私のいっときは義父が亡くなって約10年、脈々と続いてきた永遠で、日が経つごとに薄まった。
義父のあの時項垂れたいっときは、私と義父のわずかなやり取りの中で時が経てば経つほど濃厚な意味を刻む。
寛恕(かんじょ)
度量が広く、思いやりの深いこと。あやまちなどをとがめずに、広い心で許すこと。
結局、義父は義父の時間を、
こうでもなければ生きてこれなかった人生を、
生きていっただけ。
続いてく関係性の中だけに、怨念は沈んでいく。
それは生きている限り重苦しい。
だけど、人はいつか死に、死によって全ては浄化される。
いつか吹く風と共に軽やかに消えてゆく。
亡くなってからしばらく経って、ふと義父とのあの当時のぎこちないやりとりが懐かしくて可笑しくて、もっともっと味わっておけばよかったと後悔した。
義父とは、トヨタ信者である所が一緒だったり、縦列駐車のハンドルを切るタイミングが一緒だったり、般若心経の読経が趣味だとか、変な所で気が合うところがあった。
お墓参りや仏壇の前では声を合わせて一緒に般若心経を唱えた。
義父は、「私が美味しいものを食べてる時が至福です」と言った言葉を覚えていたのか、何かにつけて美味しいものをそれはそれはたくさん食べさせてくれた。
キャビア、大量の甘エビ、穴子と蛤が入ったうどんすき、津名店のひつまぶし、すきやき、鱧の湯引きなどなど…
不器用だけど、嫁の私にもやさしかった義父。
私の作る手ごね寿司の向こう側には、ずっとそこにニコニコ、ソワソワ笑っている義父がいる。
2022.2.12 ファンシー手帳より転記
2023.9.9 書き足しました。