老犬介護生活(11)「夢の国で」
先日、昨年9月に亡くなった愛犬サトの夢を、見た。
サトは13歳でヘルニアになり思うように歩けなくなり介護生活が始まった。
17歳で亡くなる9ヶ月前から自力で歩く事が出来なくなり、車椅子に乗せて散歩に行き、水を飲ませ、ご飯を手で食べさせ、オムツ交換、夜は1、2時間おきに体制を変え、ヘルニアに良いと言うお灸をし、マッサージをしといった介護を4年間。サト自身もそんな私の思いに応えてくれて、生き永らえ、そして最後を私の胸の中で昇天。
言ってもどうしょうもないことを言葉に出してしまえば、17年もそばにいると、天気の良い日は「サトを散歩に連れてってあげなきゃ」とふと思い、雨の降る日は「今日はサトを散歩に連れてってやれないな」とふと思うこの習慣から中々抜け出すことができず、天気を思うだけのような無防備な日常のあれこれに、いちいち胸の軋むような思いを味わいつつ日々を過ごした。
出会ったその日からずっとずっと真っ直ぐに飼い主である私を追っていたたった一つのかわいい命は、いつしか体が思うようにならなくなってから耳で感じる私の気配を必死に追っていた一つのいとしい命は、ふっと私の腕の中でゆっくりと昇天し、あの日からの言いようのない虚無感は今もずっと私を捉えて離さない。
理屈じゃなく、整理なんて出来ないまま、無防備な日常のあれやこれやで胸を軋ませることを繰り返し、それに自分を慣らせていく。
こうして慣れていく。
これも一つの人間の順応力なんだなと気付く。
夢の中。
部屋に帰るとサトはけたたましく吠えながらベットの上から飛び降りてきて、私はサトが足を悪くしないか心配になる。そんな事お構いなしで、いつもそうだったように、私の足に絡みつき、吠え付き続けながらせっつく。
サト「どこに行ってたの!置き去りにして!面倒係なんだから、どこにも行かず、そばにいなきゃだめでしょ!はやくごはん作ってよ!」
私「はいはい」
怒りながら部屋の中を私を追って足にまとわりついて動き回っているサトを、踏まないように気をつけながら、いつもそうだったように、屈んで両手で体をおっしおっしと撫でる。
捕まえて、落ちないようにしっかりお腹をホールドして、抱っこして首の後ろの匂いを嗅ぐ。
そこで私はこの手触りが久しぶりだと気付く。
サトにもう2度と触れないと思っていたけど、いま触れている!
あの私に向かう魂の塊は、そのままに。
その事実を一緒にサトが死んだ時泣いた家族に知らせたいと思い、声を上げる。
「サト、生きてた」
寝ているので、声が出しづらい。
寝てる、これは夢なんだ、でもここにサトがいる。
必死に絞り出す。
「…サ…ト、い…ぎでだ」
そこで目が覚めた。
隣には息子が寝息を立てて寝ていた。
翌日、息子と娘にその夢の話をすると、
「お母さんよかったね。サトが死んでから夢でも出てきてくれないかなとずっと言ってたもんね」
と言ってくれた。
生前の元気な頃と変わらない振る舞いでいることになんかびっくりした。
だって4年も老いぼれ、体が少しずつボロボロになっていくのをゆっくり見ていたから。
終末期はいっときいっとき忘れないようにあんなにしっかりと噛み締めていたのに、夢の中では5年以上前の健康で元気なサトがいた。
私の憂いを蹴り散らかすような、わがまま炸裂のウ〜ッワンワン!と私にスゴむサトがそこにいた(夢だけど)。
フリフリ尻尾を振って、私を侍従関係で下に見てた。本当はきちんと人間様が上というルールを教えた方が犬はストレスなく生活できると言った記述が何冊か読んだ犬の育成書に書いてあったけど、最後まで、私が下でサトがお上の一生を過ごしてしまった。
なんとなく、サトに偉そうにされて、私が笑いながら従う、その関係が好きだったから。
いまサトの骨は私の枕元に、最後の大切な時を過ごしたいつもの寝床の隅に置いてある。
ここが一番しっくりくる。
「逆縁の不幸」
親よりも子が先に死ぬのが親にとって何より辛いというはなし。
子どもの立場に立つと、きっと、子どもも先に死んで親を悲しませたかった訳ではないんだろうなと思うから、この言葉はなんかきらいだった。
親の立場に立つと、子どもを産んで死ぬまで毎日毎日、一生面倒を見てきた誰とも比べようもない大切な存在に死なれるのはどんな辛さか想像を絶する。
だけど、見方を変えてみたら、大好きなお母さんやお父さんに看取られて最後を迎えられた子どもは一番安心出来るその人達に痛みも辛さも包み込むように受け止められて見守られて体が自由になる瞬間が訪れたのなら、もしかしたらもしかしたらそれは幸せだったといえるのかもしれない。
触られるのが大嫌いな赤ちゃん犬の頃から自力ではおしっこが出来なくなるまでボロボロに年老いていった一生。
最初から最後まで私の用意したご飯をギリギリ数時間前まで美味しそうにがっついて食べて、そして最後の時を迎えた。
老いることは諦めをつけること。
あんなに一生懸命がんばったんだから、もう死んでしまってもしょうがないんだと諦める為に、愛しい体は衰え、目は見えなくなり、耳は遠くなり、歩けなくなり、ボロボロになっていくという過程を経て愛しきものは死んでゆくのではないだろうか。
もしかしたら、老いは、愛しい人が死んでいく事を諦めるための神様がくれた儀式なのかもしれない。
ふとあの夢の中のあの元気でわがままなサトのことを思い出すと、意外とサトは天国であんなふうに暮らしてるんじゃないかなと言う気がしてきた。犬には天国の概念がないだろうから、そこが天国とも知らず暮らしてるんじゃないかと思う。
もしかして、いつもいっしょだよ、は夢じゃなくて、サトの住む国では私たちが暮らしたいつものありきたりな日常が続いてるのかもしれない。そこに私もいて家族みんないて暮らしているのかもしれない。
だったらいいなと思う。
2022.9.28