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私は女性だけど、その前に一人の人間なんだよねという話

映画「ずっと独身でいるつもり?」を見た。

36歳独身女性が、婚約を機に自分の人生や生き方を見つめ直し、結婚することが果たして幸せなのか、自分の幸せは何なのかを見つけ出す過程を描いている映画だと解釈した。

正直、作中に出てくる女性たちの考えが、今の自分の気持ちと重なりすぎて、終始「わかる~」と思いながら見ていた。

男性のコップのお酒がなくなっていると気づけばお酌をするのが当たり前。キッチンに立つのは女性であり、男性は居間に座って楽しそうにお喋り。女性がご飯を出すのを男性は座りながら待ち、女性が食器を片付け、洗い物をするまでが1セット。結婚したらそれがより顕著になるという描写も描かれていた。また、子どもが産まれたら、夫婦の子なのに、男性は仕事があるからとヘッドホンをして、子供の世話をせず、あやすのはいつも女性。

いや、なんで?男女平等じゃないん?

女は笑っていればいい、ニコニコしていたらいい。女は愛嬌。一緒にいるときは癒す存在でなきゃ。結婚するためには料理ができないとだめ。男性を立てて、男性にカッコ良い場面を作ってあげること。守ってあげたいと思わせること。ガードが堅い女には誰も寄って来ないよ、隙を作らないと。男性ウケ狙っていかないと。

さんざん言われてきた。身内にも友人にも、女の人はこうしてたらいいんだよ。頭の良さとか要らないから。別にそんなの求めてないから。それよりも、男性の話に笑って、楽しそうに過ごして、俺でも幸せにできるかも、この子を楽しませられるかも、と思わせることが大事なんだよって。

大学院に行くと言うと、祖母からは「わあ、すごい」と半ば呆れ気味に言われた。大学卒業後もまだ勉強するの?女の子なのに、そんなに勉強してどうするの?と言われたような気がして、なんだか居心地が悪かった。初対面の人にも、「大学院に通っています」と言うことを躊躇ってしまう。おそらく女性が大学院に行くことは珍しいことという意識が、潜在的に自分の中にあるんだろうな。

たぶん私は、性役割に縛られたくないと心のどこかで思いながらも、恋愛のため、結婚のため、その他社会で生きていくために、世間が求める女性像に囚われている(と思う)。まあ、社会の中で生きていくためには、社会的性役割=ジェンダーという括りに当てはめることは避けては通れないとも思っているのだけれど。

でも、女性である前に一人の人間なんだよね。

いつも明るく愛嬌ふりまけるわけではないし、笑って過ごせないくらいひどく落ち込む時だってある。苦手なことは確かにあって誰かに頼らざるを得ない時もあるけれど、でも自分にだって、他人に頼らずとも出来ることはある。媚売って、女性性をばらまくために生きているわけではないし、自立して生きていくためには、それなりに強くならなきゃいけないとも思っている。

女性だからこうしないといけない、男性はこうあるべき、といった風潮の中で、それを纏って過ごすことが時々辛くなる。自分はこうしたいんじゃないと思ってしまう。

社会の中でそれぞれの性役割を持って生きていくって、なかなか難しいね。



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