自分目線
絶賛KUAD Photography 2019 graduates「KUGIRI」展@gallery176に出展中の高林です。意外と早く2本目書いてます(笑)。展覧会に来て下さる方々といろんなお話させていただいて、とても貴重な時間となっています。ありがとうございます。(執筆時点で)あと3日も楽しみにしております。
会話の一言一句を記憶・・・、みたいなのが苦手なのでちょっとざっくりしてきますが、今日在廊中のお話の中で「自分目線を入れない方がよい」というお話があって、昨年個展していたときにも別の方から同様の話を聞いたな、と思い出しました。レリーズを押した瞬間に自分の目線は入るからわざわざ入れなくてもいいんじゃないかという感じのお話です。昨年していたお話ではその目線すらいらないって話されていたと記憶しています。自分の目線が入りすぎている≒私的過ぎるって指摘(だじゃれ)なのだと受け取っていますが、なぜ、去年も言われながらすっかりその辺を横に置いていたのかをぼんやり考えてました。そもそも昨年の夏ごろに言われたことがあまり記憶に残っていないのもあります(卒制の時に言われたことを、先日言われるまで忘れていたり)が、「自分なりの表現を」「自分じゃないと撮れない(かもしれない)写真を」などなど、なにか形にしないといけない焦りなんかは多分にあるんだろうなと思います。なんで焦るのかというと、自分に自信がなかったり、立ち位置の不安定さだったりなんだろうと考えます。だから今も自分が何を撮れるのか、作れるのか、伝えられるのかといった所はなかなか答えの出ない自問自答を繰り返しているし、今回の展覧会の諸々を引き受けてやっているのもその延長にある気がしています。
そこを踏まえた上で、今すぐに自分の目線を写真から排除していく訓練をしていくべきなのか?というとそうでも無い気は今のところしています。今回展示している作品を見ていて、自分らしい目線、視線(どっちだ)は出ている気はしていて、ただそれがどういうものなのか、まではまだわからなくてそこをもう少し突き詰める必要はあるのかなと感じています。その上で今ある写真から自分の目線を抜いていくのはどういうものになるのか、どう撮るのがそういうことなのかを考えて行けたらよいのかなと思いました。考えるより撮れよ、とも頭のどこかにありますが、またそれはそれで。
寝かけてふと思い立ってさらっと走り書きして寝ようと思っていたら1000文字(汗)。丁寧語でちょっとくどい文章になってしまって反省。まあそもそも文章ヘタだけど(笑)。