データで見るマーラーの生涯
はじめに:「データで見る」とは?
クラシック音楽についてデータで分析してみようという試み。作曲活動に焦点を当てて、データに基づいて作曲家のキャリアの変化を分析してみる。
初回としてラフマニノフを取り上げた。
続くのはグスタフ・マーラー。個人的に好きな作曲家なのはもちろん、作品数が比較的少ないので、今後のためにまとめる方法を確立するのによいという実際的な理由もある。
グスタフ・マーラー
グスタフ・マーラー(1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、オーストリアの作曲家・指揮者であり、後期ロマン派音楽の重要な人物である。壮大なスケールと独自の世界観からなる交響曲は、彼の中でも重要で有名な作品である。
今回のデータ
データはIMSLPから取得した。
作品数カウントのルール
作曲が複数年に跨る場合は等分しカウントする(例えば、1883 - 1888年にわたって作曲された曲なら1883年から1888年に1/6ずつ)。
交響曲など楽章に分かれている曲は、楽章ごとに1曲ずつとしてカウント
『さすらう若者の歌』など組曲になっているものは、それぞれを区別して1曲ずつとしてカウント。
このカウント方法には議論が残るが、どのくらい作曲活動があったかという指標にはなると考えて、ひとまずこれで進める。
データと見るマーラーの人物史
幼少期から指揮者としてのキャリアの始まり
マーラーは、当時オーストリア帝国領であったボヘミアのカリシュト(現在のチェコ共和国カリシュチェ)で、ユダヤ系の家族に生まれた。幼少期から音楽の才能を示し、1864年4歳でピアノを始め、1870年10歳で初めて公開演奏を行った。1875年15歳でウィーン音楽院に入学し、ピアノ、作曲、指揮を学び、1878年に卒業した。
1880年、リンツ南部のバート・ハルの小さな劇場で初めて指揮者の仕事を行う。
そこから、
1881年にラシュト(現在のスロベニア・リュブリャナ)、
1883年にオルミュッツ(現在のチェコ・オロモウツ)、
1883年にドイツのカッセル、
1885年にプラハの王立劇場、
1886年にライプツィヒ歌劇場
と、場所を変えながら指揮活動を活発に行う。
この間マーラーは作曲活動も行い、1888年に『交響曲第1番「巨人」』を完成させた。
ブダペストとハンブルクでの成功
1888年、マーラーはライプツィヒ歌劇場を辞任し、ハンガリーのブダペスト王立歌劇場の音楽監督に就任した。ここで彼は、ワーグナーやモーツァルトなどのオペラを精力的に指揮した。
1889年、マーラーの父ベルンハルトが亡くなり、その後、同年に妹レオポルディーネと母も亡くなった。
1891年、マーラーはドイツのハンブルク市立歌劇場の首席指揮者に就任した。
1892年の夏、マーラーはハンブルクの歌手たちをロンドンに連れて行き、8週間のドイツオペラシーズンに参加した。これが彼の唯一のイギリス訪問となる。
1893年、彼はオーストリアのアッター湖のほとりにあるシュタインバッハに作曲小屋を手に入れ、以後の人生において夏をここで作曲に捧げるという習慣が確立した。この頃『交響曲第2番「復活」』(1894年完成)、『交響曲第3番』(1896年完成)を作曲した。
ウィーン宮廷歌劇場の時代
1897年、マーラーはウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)の音楽監督に就任する。当時のオーストリアでは、ユダヤ人に対する差別が根強く、このポジションを得るためにマーラーはユダヤ教からカトリックに改宗している。
ウィーンでは、マーラーはオペラの演出や演奏水準を飛躍的に向上させた。彼の厳格なリハーサルと革新的な演出は聴衆に高く評価され、ウィーンの音楽界に新風を吹き込んだが、その厳格さゆえに奏者たちとの対立は大きかった。
1900年、交響曲第4番が完成。
1902年、マーラーはアルマ・シントラーと結婚した。二人の間には二人の娘、マリアとアンナが生まれた。
1902年、交響曲第5番が完成。
1904年、交響曲第6番が完成。
1906年、交響曲第7番が完成。
1904年、マーラーは『亡き子をしのぶ歌』を作曲。原詩はフリードリヒ・リュッケルトの作った詩集で、リュッケルトの子供のうち2人が相次いで亡くなるという出来事のあった後に書かれた。
マーラーがこの曲を書いた4年後の1907年、長女マリアが4歳で亡くなるという悲劇が起こる。同年、マーラー自身も心臓疾患と診断され、健康面での不安が生じた。
1906年、『交響曲第8番「千人の交響曲」』が完成。(これがマーラーのウィーン時代最後の作品となった。)
ウィーンでの多くの成功にもかかわらず、1907年には反ユダヤ的なウィーン社会は彼を追い出すための新聞キャンペーンを開始し追放しようとした。マーラーの方も、自身の作曲活動に費やす時間について歌劇場のマネジメントと意見が対立し、辞職の準備を進めていたこともあり、マーラーはアメリカ行きを決める。
アメリカでの新たな挑戦
1907年、マーラーはウィーン宮廷歌劇場を退任し、アメリカのニューヨークへ渡った。彼はメトロポリタン歌劇場の指揮者に就任し、その後ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督も務めた。彼の指揮はアメリカでも高く評価された。
1908年の夏にオーストリアへ戻ったマーラーは、チロル地方のトブラッハ近くに最後の作曲小屋を構え、『大地の歌』を作曲した(1909年完成)。この作品は交響曲的な性質を持ちながら、マーラーは「第9番の呪い」を避けるために番号を付けなかったとも言われている。
1908–09シーズンでは、メトロポリタン歌劇場での出演は19回のみとなり、
マーラーはオペラハウスの職を辞し、新たに再編成されたニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者の職を受け入れることを決意する。
晩年と最期の作品
1909年の夏、マーラーは再びヨーロッパに戻り、『交響曲第9番』に着手する(1910年完成)。これは彼が完成させた最後の交響曲となった。
1910年の夏、マーラーは『交響曲第10番』の作曲を始め、アダージョ楽章を完成させ、さらに4つの楽章の草稿を書いたが、これは未完に終わる。
1911年2月21日、高熱がありながらもマーラーはカーネギーホールでの演奏会を指揮し、これがマーラーの最後の演奏会となった。
一家はヨーロッパへ戻るがマーラーの回復の兆しはなく、5月18日、最後はウィーンにて亡くなった。
これから書くもの
マーラー作品の調性とジャンルを整理