データで見るラフマニノフの生涯
はじめに:「データで見る」とは?
クラシック音楽についてデータで分析してみようという試み。初回はラフマニノフの生涯。
作曲活動に焦点を当てて、データに基づいてラフマニノフのキャリアの変化を分析してみる。作品数の変動を通じて、歴史的背景や個人的な要因との関連性を探る。
(なぜラフマニノフかというと、今ピアノ協奏曲第3番の練習をしているからです。オケも打ち込みで自分でつくっています。よかったら見てやってください。)
セルゲイ・ラフマニノフ
ロシア生まれのセルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)は、作曲家、ピアニスト、指揮者として幅広く活躍した。その生涯には、創作活動の停滞と復活、ロシア・ドイツ・アメリカなどに亘る活動場所の変化など、様々な転機があった。これらの変化を、データとともに追っていこう。
今回のデータ
データはIMSLPから取得した。作曲年が不明のものは除外し、作品番号(Op.)付きかどうかで区別してカウントする。作曲が複数年に跨る場合は等分しカウントした(例えば、1890-1891年にわたって作曲された曲なら1890年と1891年に0.5ずつ)。
緑色が作品番号付きの作品
グレーが作品番号が付いていない作品
そして、それぞれ
濃い色がオリジナル作品
薄い色が編曲作品(パガニーニの主題による狂詩曲などはこちら)
となっており、折れ線グラフは"作品番号付き"の全作品のうち、その時点で何%が作曲されたかが示されている。
作品数カウントのルール
異なるアレンジで複数作曲されているもの(ピアノ協奏曲第1番のオリジナルと2台ピアノ編曲 など)は、区別せずに1曲としてカウント。
プレリュードなどの組曲は、それぞれを区別して1曲ずつとしてカウント。
交響曲など楽章で分かれているものは、分けずに1曲としてカウント。
このカウント方法には議論が残るが、ひとまずこれで進める。
キャリアの変遷をデータで読む
若年期の成功と最初の挫折(1880年代〜1890年代)
ラフマニノフは幼少期からその音楽的才能を評価され、モスクワ音楽院でピアノと作曲を学んだ。1891年には作品番号第1番となる『ピアノ協奏曲第1番』を完成させ、注目を集める。しかし、1897年の『交響曲第1番』の初演は大失敗に終わった。交響曲という作曲家にとって重要なジャンルの、しかも第1番での失敗によって、彼はスランプに陥った。1897年から作品番号つきの作品がひとつも作曲されなくなったことがグラフにも見える。
復活と黄金期(1900年〜1917年)
1900年、ラフマニノフは精神的な治療を経て、再び作曲活動を再開する。1901年に完成した『ピアノ協奏曲第2番』が成功を収め、これ機に復活を遂げる。以降、多くの重要な作品を生み出した。彼自身が優れたピアニストであったこともあり、ピアノを中心としたものが多く含まれる。同時期にピアニストや指揮者として、ロシア国外でも精力的に活動していた。
ロシア革命と亡命による停滞(1918年〜1930年)
1917年のロシア革命後、ラフマニノフはアメリカへ亡命し、そこで主に演奏活動に注力するようになる。1918年以降、作曲数が顕著に減少しているのはこのためだろう。亡命による環境の変化や祖国を失った精神的影響、そして多忙な演奏活動に原因があると考えられる。1926年に『ピアノ協奏曲第4番』を発表するが、それ以降の新作は非常に限られていた。
晩年の再起と終焉(1930年代〜1940年代)
1930年代には、ラフマニノフは再び作曲活動を再開するが、晩年はほとんど演奏活動に専念した。1934年に「パガニーニの主題による狂詩曲」、1936年には「交響曲第3番」を発表し、1940年に作曲した「交響的舞曲」が彼の最後の作品となった。
これから書くもの
ラフマニノフの全作品の調性をカウントして分析
他の作曲家にも展開