授業に「活動」を

考えていた課題について、ひとまずの「中断」ができたので、まとめて書いておこうと思います。千葉雅也さんの『勉強の哲学』の「中断」ですね。書き出さずに次の問題にとりかかったら、何も残りそうもないので。

はじめに

休校が続くなかで、様々な議論がありますが、その根幹にあるのは「教師の存在意義」が問われている気がします。例えば、「オンライン授業」。確かに、うまくやれる可能性もありますし、知識伝達という側面だけならば、より「効率的」なんだろうと思います。

でも、教員はそこに「感覚的に」拒否反応が起こる場合が多いはずです。「四の五の言わずにオンラインだ!」という空気には、気味の悪さを感じます。確かに学校に登校できない状況が続く以上、仕方ない面もありますが。というのも、僕自身が昨年度司書教諭の免許を取るために、放送大学の授業を受講したんですよね。やる気はあったのですが、なかなか放送授業を見ることができなかった…。もちろん、僕の意志が弱いということもあるでしょう。ただ、子供たちが全員それと同様に(半)自主的にオンラインで学習を進めることはできるのか疑問は残ります。そのような人たちは、子供(広い意味でいうと「人間」)を信じすぎているのではないでしょうか。決して、生徒の悪口を言っているわけではありません。そもそも人間はそんなに強いものではないし、まじめなものでもないと思うのです。

さて、4~5月の休校期間には、コロナの件もあり様々なことを考えました。主に、次のように考えました。
①全体主義について、ハンナ・アーレントを考える
②アーレントのいう「活動」を授業をつなげる(対面式授業のよさ)
③授業内での「活動」を妨げるもの
僕の問題意識に従っているわけで、当然といえば当然なのですが、つながらないと思っていたことが後になってつながってきたりもしました。アーレントの理解については、「入門書」を何冊か読んだだけなので、正直自信がないです…。でも、自分の教員としてのコアの部分に響いてくるような直感があります。(こう考えると、僕は「日本文学科」がベストじゃなかった気がしますね。でも、国語の教員になりたかったしなー。「論理国語」とか作るなら教員免許取得の学部学科も再編するべきでは?)学んだことの復習も兼ねて、理解も曖昧かもしれませんが、最初から説明しています。

全体主義について、ハンナ・アーレントを考える

新型コロナウイルスの「ウイルスとしての怖さ」は、決してそれだけでは終わらずに、「社会がいとも簡単に崩壊していくんだ」という怖さを僕たちに見せつけていると感じます。危機が迫ったときには、僕たちはすぐに動物になってしまう。全体主義的な世界は、こんなにも近くにあったわけですね。これは、I先生が言っていたことですが、政府に対して「もっとはっきり決めてくれ」ということ自体、「主体性」の放棄なわけなんですよね。いとも簡単に、独裁ができてしまうわけです。そのような話を職員室でしたときから、「大衆を生み出さないためにはどうしたらよいか」ということを考え始めました。I先生によると、それは不可能だとのことでした。正直僕自身も同じ意見なのですが、それを少しでも食い止めたい。
そこで、ハンナ・アーレントの「活動」(action)という概念に注目したわけです。復習も兼ねて、大雑把に説明します。(間違っていたら、教えてください)
アーレントは、古代ギリシアのポリスでの活動的生活のなかに「私たちは何者なのか」を解答を見出します。活動的生活とは、
「労働」(labor)〈=生物的過程として〉 
「仕事」(work)〈=人工的な世界を構築する〉 
「活動」(action)〈=言語や身振りによって他の人に対して働きかける〉
このなかで「活動」(action)に重きを置きます。これは、他者(複数性)を前提としています。そして、この「活動」の基盤として、ポリスの「公的領域/私的領域」の区別があります。「公的領域」とは、政治が行われる場所ですね。ここで自分の利害が絡んでは政治をすることができません。他者の立場に立ちながら「共通の善」についての討論するわけです。これを可能にしていたのが、「私的領域」においての奴隷や女性です。経済的なことが、家のなかで完結したからこそ、「公的領域」での「活動」が可能だということです。
「全体主義」は、複数性がなくなってしまった状態です。つまり、「活動」の余地がない。今の状況を考えてみても「この時期に営業するのは、けしからん」という一元化が起きていますよね。これは「他者」を想定していません。もちろん本当に危険な場合もあると思いますが、何か理由があるかもしれない。それを考える余地するなくなってしまうという怖さがあると思います。
これについても、大衆の特徴と「世界観」という言葉で説明できるでしょう。
アーレントは、大衆の特徴をその無構造性に見出しました。そして、彼らが住む社会が動揺したときに、「わかりやすい世界観」を求めるのです。ここに「世界観政党」がつけこみます。真実かどうかではなく、現実を加工した大衆に受け入れやすい世界観を提示して大衆を取り込むわけですね。これは決して遠い「歴史」の話でもなく、「他人」の話でもありません。先に例に出したように、例えば社会が判断して「それは悪だ」と叫べば、それは「他者」を想定しない全体主義的な構造になってしまいます。だから、「複数性」を前提とした「活動」が全体主義を防いでいくのです。
しかし、これは「私的領域」で奴隷や女性が働くことを前提としていたわけで、現代では不可能では? というところで、僕は教室こそが「活動」の場になりうるし、そこで「活動」を経験すれば、少数でも「大衆」から抜け出すものが出てくるのではないかと思ったわけです。

アーレントのいう「活動」を授業をつなげる(対面式授業のよさ)

ここは、僕の師匠が「対面式授業のよさ」という課題を出してきて、それに答えた内容です。ちょうど、①で考えていた内容がつながりました。僕は、アーレントの言う「活動」(action)と、「対面式授業」を重ねられないかと考えています。そして、「活動」こそが「対面式授業」のよさにつながるのでは、と。「活動」と「対面式授業」と何が重なるかというと、
①自分の利害とは無関係であること、そして共通善について討論していること、
②①の利害に無関係である(私的領域が確保されている)ことによって、生徒も教員もappearな状態にあること、
③他者の存在に依存していて、複数性を認めて、それを意識して自らを演じること、が挙げられるでしょう。
もちろん、①に関して受験や成績など利害を含んでいることがほとんどですが、授業のなか余白みたいなものがあるかと思います。
ただ、さらに考えていくと、「オンライン授業」は①~③の条件を満たさないのか(「活動」にはならないのか)という問題があります。もしかしたら、きちんとした手続きを踏めば、「公的領域」の性質を持ち、「仕事(work)」から抜け出すことも可能なのではないか。でも、そうじゃない。最初に戻ると僕たちは「感覚的に」それを受け入れたくないんですよね。
この「感覚的に」の根源にあるのは、「身体性」だと考えました。「公的領域」においてappearになる前提として、人々の「身体」があるのではないのでしょうか。
なぜかというと、「身体」が直接複数の目にさらされることって、人間としてかなり本質的なことになる気がします。例えば、カメラの前でする変顔と人の目の前でする変顔って難易度がかなり違くないですか? また、温泉とかでも、一人でゆっくりしているときは堂々とフルチンでいるのに、人が入ってきたとたん隠したくなりませんか?自室だとかそういう場所性ではなくて、教員も生徒も直接感じる複数の視線があるかどうかが問題なのではないでしょうか。 もちろん、パソコンに向かっている姿を他の人に見てもらうとか(そのためにカフェにいったり)で近い状態は作れますが、語りかけてくるその人に直接見られるというのは再現できません。
逆に言えば、「オンライン授業」は「仕事」(work)までなら可能だとは思うんです。〈手段‐目的〉のなかだけですからね。だから、「オンライン授業」をすべて否定しているわけではありません。また、時間や空間に縛られないという点では、明らかに対面式授業よりも優れているでしょう。でも、それだけならば、「対面式授業」はすでに失われていたと思います。そうじゃない何かがあるとすると、それは「身体」があらわになる感覚ではないでしょうか。
お互いの目の前にさらされるからこそ、「(仮面をかぶった)演技としての活動」が可能になる。アーレントも「仮面」というのを、否定的にはとらえていなかったようですしね。
「活動」のためには「仮面」が必要なわけです。
しかしながら、僕は次に「自分の利害」ということに引っ掛かりました。「授業」は「評価」という人生を左右する(経済的な問題にもつながる)「進路」という利害関係の場でもあるではないか、ということです。

授業内での「活動」を妨げるもの

さて、単純な僕は、それなら「評価」を全くしない授業を作ればよいのではないかということを考えました。しかし、そんな単純にいくわけはないですよね。この「評価」というのがなかなかやっかいな代物です。というのも、「評価」が全く入らない授業なんていうのはあるのか。例えば、ちょっと目が合うとかうなずくとかだけでも「評価」に入るはずです。そして、人は「評価」されたほうがやる気になるのではないか、と思うからです。だから、「評価」そのものをなくすというのはプラス面もなくなってしまう可能性もあるわけです。ということで、授業を「活動」と見立てたときに問題となるのは、評価の仕方によって多様性がなくなってしまうという現象が起きることではないでしょうか。そして、その原因にあるのは、「態度」までもが評価の対象になってしまうということだと考えています。この「態度」ということで、本田由紀さんの『教育は何を評価してきたのか』とつながってきました。また、今読み進めている小熊英二さんの『日本社会のしくみ』とも関連してきました。本田さんは、学校教育において、学力という日本型メリトクラシーと生きる力・人間力のようなハイパー・メリトクラシーが生み出す「垂直的序列化」と、特定の振る舞いや考え方を全体に要請する「水平的画一化」が同時に作用しているということを述べています。確かに、これは現場の感覚とも合致しています。生徒の「態度」や「資質」を評価する、とは言うけれど、その「空気」によって教室内は画一化されてきていると感じています。新学習指導要領の方向性のなかで、「主体的・対話的で深い学びの視点からの学習過程の改善」とありますが、「垂直的序列化」と「水平的画一化」の構造がある以上、難しいはずです。本田さんもおっしゃっていることですが、現代の日本の課題とは全く正反対の方向への力が教育現代には働いているわけです。ちなみに、僕はひねくれているので、同調圧力だけを強めた、形だけのアクティブラーニングみたいなのは好きになれず、研修でそれをやられたときは、トイレにこもったこともありました。(僕の授業もそうならないように、工夫しています。そうなってしまいそうな時も、最低限としてなぜその活動をするのかを説明しています。)また、そもそも「態度がよい」ということで評価してよいのでしょうか。態度はよくても思考は全く働いていないなんてことはざらではないでしょうか。さて、話を戻しましょう。授業内での「評価」(特に「水平的画一化」による「態度」についてのもの)は、アーレントを用いて考えた、授業を通して複数性を認めるための「活動」を妨げるわけです。そして、そうなった結果、どうなるんでしょうか。ここまでの話をまとめれば、複数性(他者)を前提としない(ということは、自己すらも見えない)大衆となってしまいます。僕が対抗策として考える一つの可能性は、授業やその評価をもっと「閉じる」ことです。古代ギリシアにおいて、「活動」が成立した理由は「公的領域/私的領域」が分かれていることにありました。それを適度に授業のなかで用いるのです。極論を言えば、評価を内申書として進路先に提出しなくてもよいのではないかと考えています。先ほど紹介した2冊のなかでも、内申書の話は出ていましたが、これが進学や就職の評価材料となっているのは、「慣習」でしかないのです。社会に出てからのスキルを意識すればするほど、もしくは現在の「実用的な国語」への批判に便乗すれば、実用的になればなるほど、そこにはアーレントのいう〈手段‐目的〉のなかで完結する「仕事」(work)にしかなりえません。また、先ほどの「評価」の話にしても、少なくとも「資質・態度」といった基準は、「活動」として授業を考えるときには邪魔にしかならないと考えています。(他者は目的を達成するための〈手段〉にすぎない)もちろん物事にはすべてプラス面とマイナス面があるわけなので、意識的に「開かれている/閉じている」をうまく使い分けていけるかが腕の見せ所なのだと思います。

まとめ

長くなりましたが、まとめますと、「アーレントが古代ギリシアに見出した『活動』を授業のなかで成立させることで、大衆から抜け出す可能性を生徒に持たせることができるはずだ。そのためには、少なくとも画一的なふるまいを要求する「評価」はなくすべきだ」というところでしょうか。「評価」のところは、ちょっとまだまとまりきらないですね…。まだまだ掘り下げられそうなので、継続してもう少し考えていこうと思います。

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