生活感と走ること、歩くこと

新興住宅街の箱庭感への恐怖

最近、高い建物が不気味に感じる。なんだかこの世にはあってはいけないような、人工的な不気味さが感じられるようになった。そう思ったのは、印西市の観覧車を見たときだった。八街や酒々井の畑のなかを車で走った後に、ふと見えてきた新興住宅街のなかにその観覧車はあった。なんだか、箱庭のなかの世界に入ってきてしまったかのようなそんな気がした。

生活を感じること

僕は大学時代、1週間もない帰省のなかでこんなことをしていた。(いろいろな事情はあったが)漫画喫茶に荷物を置いたあとに、あてもなく東京の街を歩きまわっていたのだ。何回も同じ道を歩いたり、道に迷ってみたりと今考えるともう少し生産性のある冒険ができそうである。ただ、そのなかで人間のドロドロした、しかし生命力に溢れる欲望が包み込む街に自分も溶け込むことが快感だったのかもしれない。もしかすると、僕があの観覧車に感じたのはその人間の欲望がきれいに去勢されてしまったことに対する抵抗感なのかもしれない。

走ることや歩くこと、そして老人の自転車

幼い頃から、電車や車に乗って、外の景色を見ていると、「いけないこと」をしているのではないかという気分になることがあった。通り過ぎていく街や家のなかには、その人々のまさに「生活」があるはずなのに、それをとんでもないスピードで通り過ぎてしまう。それは、人間として本来あるべきではない行為なのではないかという感覚が今でも僕を襲ってくる。職場の先輩のIさんにこの話をしたら、「だから、走ってたらいけないんだ」と言われた。まぁたしかにスピードを出して走ると自分が走ることで精一杯になってしまい、世界とのつながりは感じられないかもしれない。そういうことなら、余裕も持てるしスピードの調整もできる自転車が一番いいのではないかとIさんは言っていた。なるほど、田舎の道路を僕が走るのよりもゆっくりと自転車を漕いでいる老人は、もっと鮮やかな世界を見れているかもしれない。

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