洗濯機を回すこと、もしくは白菜を炒めること
やり始めることが大事
風呂に入る前に洗濯機を回すのが習慣だ。そのときに、洗濯物がやたら多いなと感じることがある。しかし、勇気を出してスイッチを押して待つと、量はそれほどでもないことがよくある。また、先日すき焼きを作ろうとして白菜を切っていたときのことだ。こんなに大量の白菜なんていらないんじゃないか、と思ったら、料理をしていくうちに適量になっていく。なんとなく、この2つの出来事は似ていると思った。
とにかく書いてみる
今僕はまとまった文章を書こうと思っているのだが、「誰かに読まれる」と考えると、中途半端なことは書けないとやはり時間をかけてしまう。僕のなかでの変なプライドがあり、どうしてもカッコよく書けないと許せないと思ってしまう。(小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でも「ナルシスト」と呼ばれた。きっとこういうところなのだろう)だから、現在国語の教員をやっていても、書けない生徒の気持ちがよくわかる。もちろん、書けるように書き方のアドバイスするのだが、実は「書けない理由はそこじゃない」ということも十分わかっている。自分が考えていることは「書く」という行為に値しないのではないか、そういう不安が彼らには、そして今まとまった文章を書こうとして書けない僕にはあるのだ。だからこそ、何でもいいから書くことに意義がある。そう、洗濯機のボタンを押すように。白菜を炒めるように。とにかく書いていくことで、それが滑らかに動いてくるはずだ。
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