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泣いてる子に…@0歳児の心

ある日の保育にて。0歳の子達と共に過ごしていた。

お昼寝の後、おやつを食べ終えていつも過ごしている場所に戻った。
しばらくして、ある子が泣き出した。

早く起きちゃったから、ねむい?
もっと食べたかった?
そろそろお迎えだからお母さんが恋しい?

突然の涙だったこともあり、とても申し訳なかったが
僕には理由を分かってあげることができなかった。

こちらに向かって「だっこして」の雰囲気なので、抱っこしてみた。
しかし座っているのでは満足できないようなので、立って抱っこしていた


少し静かな空間に移動した後。

ふと周りを見ると、ひとりの男の子(同じく0歳児)がこちらを見ている気配がする。じっくり見ると・・・僕を見ているのではない、抱っこしている女の子の方を見ているようだ。

男の子の表情は、明るい。
ほっとした?落ち着いた優しく暖かい雰囲気に感じられる。


これは、なにかある??
女の子に何か伝えている?伝えたいのかな。

そう感じて、立っていた状態から座ってみることにした。

すっと座ってみると、男の子が近づいてきた。
目線は変わらず、女の子である。

男の子は、膝立ちになり、手を伸ばしてきた。
この子たちは二人共、まだつかまり立ちができるようになったばかりだった。なので、膝立ちになるのにも結構力がいる。

なんとか踏ん張って、ようやく伸ばした手を、
なんと女の子の頭に、

ぽん、ぽん。

と、なんとも暖かい間と感触で触れた。
「ぽん」というより、「そっ」とか「ぽっ」とかが合っているだろうか。
そしてもう1度。思いっきり手を伸ばす。

同じような場面は、保育中たまにあるが、
0歳児の場合、この「ぽん、ぽん」が突然「べしべし!!」に変わることもよくあるのだ。だが、このときはあくまで「ぽん、ぽん」だった。


思いっきり伸ばしているし、姿勢もきついはずなのに、

ぽん、ぽん。

この力加減は絶妙なのである。
これを3分くらいやっていた。
目線はほとんど、女の子を見ていた。

女の子は、男の子と目があった時点から泣き止み、
何かを感じているようだった。

僕には、女の子がなぜ泣いているのか。どうして泣きたい気持ちなのか、分かることができなかった。
でもきっと、予想だが、男の子には分かっていたのではないだろうか。
あの柔らかい笑顔は。そして目線は。心は。
女の子の気持ちを分かっていたのではないだろうか。
明らかに、何かを伝えようとしているように見えた。

当然だが、「ほら、泣いてるからヨシヨシしてあげて」なんて誰も言っていない。自分の意志で、彼女に伝えたいことがあり、身体と心をフル活用して、彼は自ら動いたのだ。


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人として尊敬できる、0歳の子たち

この男の子は、わりとひとりで遊べる子だ。

遊べる子は、甘える子と違って「遊べてしまう」がために、大人に甘える量が少なくなりがちである。甘えが少ない理由は、心が安心しているからとも言えるが、子どもによっては実は我慢して甘えていない、なんてこともよくある。

この男の子だって、きっと甘えたいときもある。
甘えたくても、抱っこしてもらえなくて。泣いていることもある。

でも、このときは。
男の子の心は、完全に女の子に向いていた。

僕は心底、この男の子のことがカッコイイと感じた。
なぜなら、僕にはこんなことができないだろうからだ。


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大人の目を見ない子

同じようなシーンは、保育中たまにある。
しかし、多くの場合、それも一歳を過ぎる頃になると
ヨシヨシをするときの目線は大人を見ていたりする。

その裏には、
「ほら、よしよししてるよ」
「みて。ほめて」
という気持ちがあるように感じられることが多い。
もちろん、本当のところは分からないが。

今回は、ほとんど大人である僕を見ていなかった。
僕はただただ、
「泣いてたね。どうして泣いてたんだろうね…」
「悲しかったのかな…」
と、つぶやくくらいしかできなかった。

ここで、ぽん、ぽんとした男の子を”褒める”のは、何か違うように感じた。
この子は、「褒めて欲しい」と思っていない、ように見えた。もし「褒めて欲しい」と思っていないのにこの子を褒めてしまったら、「褒めて欲しい」子になってしまう、かもしれない。

「この男の子がすごい」という単純なことではない。
本来子どもたちは皆、暖かい心をもっており、他人に心を注ぐことができる。子どもたちは、そんな世界に住んでいるような気がしている。

そう。つまり我々大人も、
本来は。そして心が満たされていれば
人に自分の気持ちや心を送るということを自然とやれるはず。
そんな風に思っている。
子どもたちを見ていると、そう感じるのだ。

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