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なんのために巡礼しているのか

いま高千穂のとある集落にある場でお世話になっております。

去年から始まったまつりごとの当日を含む前後のプロセスをご一緒させてもらうことになりました。3年で完結する物語。去年は、参加者として味わったのですが、なにがどうということは一切言葉にはできないんですが、その時に痛烈に感じた『この営みは人類にとって大切』だということ。それを頼りに、たどり着きました。だからなぜここに来たのかすらも、自分もよくわかりません。これから徐々に明らかになるんだろうなと。

明日どこにいくのか、今日どこにいくのかも、何をしているのかすら、わからない時もあるのですが(笑)、そんな僕が去年の春分に参加し、直感的に、一年後の春分の予定を空けました。



3月13日から2週間弱ほどいることになりそうです。この「巡礼」を始めてから、一つの場所にいる期間で言えば、最長です。2、3年前くらい前に、「旅」をしていた頃は、数ヶ月単位の滞在もありましたが、この生き方になってからは初めてです。

今回の巡礼も、色んな意味がありそうです。色んな試練が訪れていて、正直大変です。痛いです。濃いです。ぞわぞわするようなことや自分のスペースが全くない状態になったり、自分が大事にしていたことが危ぶまれることがあったり、いくら遠ざけても、それらが追いかけてきて、目の前に現れたり・・・。

どんな選択をしてもいいと思うし、受け入れてもいいし、受け入れなくてもいい。全て現実は自分が選択して作っているんだよなあと。一種の試練、試されている感じもしていたり。実を言うと、何度もこの出来事をやり直してる感覚もあります。全部同じ結果になってるんだけど。未来を変えたいのか、そのままでいいのか。それは分からないけれど、訪れる未来が嫌すぎて、何度も色んな選択をして、逃れようと?してるんだけど、結局は同じ結果になっちゃうという。今回もそう・・・

この巡礼は、一人一人、一つ一つ、場、縁、生命・・・ありとあらゆる命を感じる巡礼でもあり、二元の世界、パラレルな世界に架け橋を通すことでもあり、「みんな家族」を叶えることでもある。色んな意味があって、結果として生まれる副産物も沢山あります。また、自己成長、自己をもっと広げろという試練なようにも思えます。




この数日、土地や人、空気や状況が変わり、それに慣れるまでに、自分をとても無下にしたり、自分の声を聞かず、ただの流れや人や状況にすべて合わせるロボットみたいに、空気みたいになってしまっていました。


「この巡礼は一体なんなのだろう?」


自分の余白をお布施するはずが、すべてを捧げてしまって。

自分が満たされて、自分の声や行動が一致してはじめて、余白ができ、そのしっくりを世界や相手にも向けることができ、相手も、自分も気持ちいい、いい塩梅の感じで居られ、お布施することできる。



未だに意味は分かりませんが、感じている流れはあります。この体験を通して、どんなときでも余白を生むこと (自分を健やかに大切にすること、自分とのしっくり感や一致感や、皆んなとのしっくり感、いい塩梅)を修行して、体得しようとしているんじゃないかなと。あとは、神様や仏教、神社の文脈が今回と合わせて、かなりきているので、いま一度そこを感じたり、見つめ直す時間になるのかもしれません。



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松本直也|きのこ
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