ぼくが余白巡礼をする理由 ①
本気で思っていることです。ガチガチのガチです。
皆んなが皆んな、家を持ち、お金を持ち、モノを持ち、資源を持ち・・・
皆んな持ち過ぎちゃう?余ってるやん!許容範囲超えてるやん!余ってるコたちがかわいそうやん!やのに、またそれを忘れて新たに買って、もうなにそれ!やのに、貧富の差が広がってるってどういうこと?人同士の、自然との、関係性の薄まり様、疎遠がすごいって、どういうこっちゃ!
というきもち。
一人ひとりがいっぱい色々持っている量的な意味と
皆んな揃って持っている範囲的な意味です。
結婚したり、子供を持ったりも、男性脳なのかもしれないけれど、皆んなが皆んなそこに向かわなくていい気はしています。豊かさや幸せを画一化してしまうこと、そこに人が向かい過ぎることに疑問を感じているんだと思います。
(日本語あってるかわかりませんが)だったら、俺は持たなくていいんじゃないかって思うわけです。
なぜか。
資源はもう山ほどあって、飽和していて、なのに、また新たにそれらを僕も持つ必要があるのかなぁという素朴な想いがあります。すべてを一人や家族だけで持ったり、体験する必要があるのかなぁと思ったり。
結婚するかもしれないし、子供できるかもしれないけれど、子供が居なくても、家族のような大切な仲間たちや子供たちが全国にリアルにいるしなぁとも思ってたり、
人類的にも、進化していく必要があると思うし、その先を見てみたいし、僕もしたい?のもあって、その方向にいのちが向いてしまっているので、僕はそれをやろうかなと。それが担当っぽいので。
もちろん、皆んながやっていく中で、なにかの分野や概念を一つとっても、様々なバリエーションがあるので、選択肢という意味で助けになることはめちゃくちゃあると思うので、それはそれとして、大事だと思います。そこを深める、広げる担当も必要だと思うので。
例えば、最近皆んなが皆んな、畑やコミュニティなどなどをやりだしていたり。(それにより分散と孤立化や分断ということはありますが)
思えば、皆んなが揃って向かう方とは、異なる方向に子供の頃から動いていた気がします。てんびん座気質というか、もったいない精神というか。誰かがそれしてるんだったら、それをお任せして、足りていないエネルギーや新たな開拓など、自分はどこかの部分を担ったほうがいいんじゃないというのがクセ付いてるんだと思います。
生まれ育った環境もあるなぁと思っていて、両親や祖父母などが、モノや物質、資源を持っていたからこそ、たくさんの経験や世界を体感させてもらいました。だから、そこはもう知ってるので、一旦もういいんだと思っているのかもしれません。そっちの探求はなんとなく知ってるし、僕も体感したし、何より家族たちが探求めっちゃしてるやん!と。
極端に振り切れることが、僕のリソースだなぁと思います。資源があることでできる探求もあれば、その逆もある。極端にすることで、見えてくることやその中でしか味わえない味わいを感じたいんだと思います。