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ぼくが余白巡礼をする理由②

一人じゃ生きられない状況を作るため。

助けてもらわないと、生きられない状況を作るため。


生かされている実感を持ちたい。皆んなと生きている実感を持ちたい。


日常の中でも、日々の中でも、それは体感できるけど、僕は、この極端な強制的にそれをしないと生きれないみたいなやり方がいいのだ。この巡礼は、それを常に体感しておける機会でもある。

対話の場にも似ている。誰かの声やいのちをかけての探求のシェアが、自分のいのちに響いて、助けになることがある。あらゆる違いがそこにはあって、その違いこそが、世界を作っているということ。それを実感できたり。


今の世の中、一人で生きられ過ぎる。家があって、お金やモノがあって、大抵のことは一人でできる、完結しちゃう。外に出なくとも、一人でも、最低限、生きていられる。死を感じることもない。「不幸せ」にならない(ここでは生活ができる、死なないを指す気がする)ような生活ができるってこと自体、世界的に見ても、すごいとは思うのだけれど。あまりにそれに飲み込まれ、「幸せ」になることと遠ざかっている気もする。


繋がりが無くても生きていけるようになった。

でもそれって、それおもんないなぁと。



僕の中で、「あらゆる対立や争い、隔たりは、(外と内での)対話やコミュニケーション、人間としての(コアの)繋がりを思い出したり、繋がり直すことで、無くなる」と思っている。

現に、日常の中でも、仲が悪い人や関係性がうまくいかない人がいても、仲良くなった瞬間から、色んなことが進み出したり、その人が仲間のように、何かをサポートをしてくれることがある。


余裕やスペース、感じることが日常にあると繋がりやすい。

また、”こんな訳わからない巡礼している奴”が目の前に現れて、人々と関わるとき、それがたまに起こったりもする。要は旅人含め、巡礼者みたいな彼らは、様々な世界を体感し、その中間の役割、ハブになっているきがする。どうしても、結婚したり、家を持つと、固定した場所にいることになる。また価値観も意識しない限り、同じような人といることも多くなる。彼らは、訳わからない世界や価値観など、様々な縁を運んできたり、世界や地球を混ぜているようにも思えてならない。

人間の体がデトックスが必要なように、水路に草木やヘドロが溜まり、水が流れなくなるときに、それを掃除することが必要なように、新たな空気や流れが必要になる時がある。そこに居る人たちで、自分たちでどうにかなることもあれば、かなり重たいものはなかなか難しかったり。新しいなにかによって、半強制的に、それが起こり、流れていくこともある。


まあ、あくまでこれらは、副産物であり、意図してそれをすると、それはまた違う感じにもなるので、僕は、粛々と、ひたすらに、巡礼をし、助けや頼みが必要な時は、声をあげ、何かを受け取らせていただき、次々と目の前にあらわれる縁や人に、巡らせていくことをしていくのだけれど。


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松本直也|きのこ
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