積極的にお布施していく
昨日こんなことを書きました。
感じて自分と相談したうえで、一旦この言葉を置いてみて、一旦これをしよう!と決めること、モード(意識)に入ってみたことで、すんなりと昨日それを実行してあげられました。
お布施することへの戸惑いはまだあるんだけど、それはあたりまえにあることとして感じてつつ、その上で、この行動をしているんだ・・・みたいなフローがありました。だから、やりやすかったです。以前から気分でお布施してたんですが、どこかこの感情や戸惑いとごちゃまぜにしてきたので、スムーズではなかったというか、あまりお布施するモードにも入れず、無理やりに、色んなきもちを感じず、えい!とお布施することが多かったかもしれません。
そんなこんなで、やってみて、なんかいい!って思いました。最近5日ほど寝る場所と食べるものをお布施していただき、かつ自由に僕の赴くまま動いていいよと伝えていただき、自分の活動もしつつ、その方の暮らしや生きるに、一員として、すんなり入らせていただいて、きもちいい暮らし滞在、家族滞在ができました。その方のお友達や関わってる皆さん、土地を感じながら、また定期的に帰ってきて、この土地の人たちと過ごすんだろうなと思いました。ほんとに嬉しいです。これがKINOKO、皆んな家族のタネなんだよなぁと思いました。各地に、そんな大切な人達、大切な文化や土地を増やしていくんだろうな。
こんなふうに、最近よくお布施をいただいていたので、バランス的に、次は自分がお布施をするターンを感じていました。なので、昨日友達が会ってくれることになったので、お茶をお布施しました。イイ感じでした。まだちょっとだけしこりはあったけど、かなりの一致感でした。その後も、とあるご家族にお米と麹をお布施しました。
巡礼をしてると、かなりの頻度でお布施していただくことが増えました。その状況に慣れてしまい、気づいたら、それがあたりまえとなり、それを待っている自分や過度に期待してる自分や「自分はお金も家もモノもない探求をしてるんだから、お金を持ってる人は役割分担で、お金をお布施するべきだ。自分はお布施させてあげる機会を与えている特別な存在だ」という傲慢さ甚だしい自分が顔をのぞかせたり、感謝が生まれにくくなったり、感じられなくなったりしてしまうことも。
こうなると、お布施するモードや自分から何かを巡らそうという感じでもなくなるので、巡りが悪くなったこともいっぱいありました。
この行為は自らのいのちを生きる主人公として、常々発していきたい、意識していきたいことだなぁと感じました。もちろん、自分がどうもできない範囲や相手のことを待つこと、委ねることもありますが、それだけではなにか足りない。自分をいつも感じながら、自分が『必ず』発していること、表していることを投げていく。そういう意味では、人間は誰しも、気づかぬうちに、存在として、お布施しているし、この世界に奉仕しているんだと、これを書きながら思いました。すごいね。この意識をもって、生きることがとても大切なことのように思います。
お布施したり、自分ができるところまでする、自分のできる範囲をすることが、巡りをよくする行為であり、この双方向の、もっと言えば、様々な角度からのマルチでユニバースなところからの、流れを感じることで、色んなことがイイ塩梅で循環するのかもしれないなぁ。
もしかしたら「積極的に」お布施する必要もないくらい、自然に僕たちは色んなことを発しているし、その発していることを自分でいっぱい感じ、目の前の人も同じようにそれを発していることを感じて、生きること。それだけでいいのかもしれない。
でもついつい忘れてしまうから、それを意識的にする行為として、積極的にお布施する意識は、あってもいいのかもしれません。