見出し画像

時代について行かない生存戦略。

ここ数年の流れの中で最近、「時代について行かなくなったな」と思う。
それは、「ついて行けない」という意味もあるが少し違うように感じる。
この感覚が、ここ数ヶ月で強烈な確信に変わったので書いてみる。

また、時代について行かなくなった代わりに私が取り組んでいる生存戦略についても共有したい。



予想できないシンギュラリティ

シンギュラリティ(Singularity)は英語で「特異点」の意味。
「人工知能(AI)」が人類の知能を超える転換点(技術的特異点)、または、それにより人間の生活に大きな変化が起こるという概念のこと。

今、AIがどんどん成長している。
絵を描いてくれたり文章を作ってくれたりといった想定内の進歩は勿論、既存データからの考察やアイディア出しなど、想定外の0→1領域まで進歩していて驚いている。

これまで「シンギュラリティは2045年だ」と予想されていたが、ここ数ヶ月の進化速度があまりにも早く、「もう来年には!?」といった声も見られるくらいだ。

私たちはインターネットの発明からパソコン・スマホの登場に立ち会い、SNSや動画サービスなどこれまでにない様々な新しいものが生まれる瞬間に立ち会って来た。
これからもAIやブロックチェーンなどの新技術を取り込んで、どんどん新しい事が生まれていくだろう。

いったい技術はどこまで進化し、私たちはどこまでついていくことができるだろうか。

そんな事に興味があるのは、俺が男の子だからだろうか。
もしくはパソコン大好きインターネットオタクだからか。


技術に置いて行かれるという危機感の正体

私の中で、ブロックチェーンが登場したあたりから「技術に置いて行かれる」という危機感が結構あった。

それは多分、その技術がインターネット技術と同じくらい素晴らしいもので、今後の社会の基盤になる気がしたから、学習しないと「スマホが使えないおじいちゃん」と一緒になってしまうと思ったからだろう。

けどよく考えたら、インターネットは使うけどインターネットの仕組みは知らないし、パソコンもスマホも使うけどその製造方法は知らない。
SNSも使うしネットで動画も見るけど、その仕組なんて知らない。
そう考えると、「ユーザーっていつだってそうだ」と思った。

どうせまた「これらの技術を用いた便利なナニカ」は利用しやすいように加工されて我々に提供される。
我々はその簡単な側面にだけ触れたらいいのだ。


・・・と楽観的に考えてこの話を終える事はできるが、そんな簡単な問題でも無いような気がしている。

恐らくこの危機感の本当の正体は、「これまで以上に自分の存在が希薄になっていく未来が見えてしまったから」だと思う。
技術を用いて何でも自由に表現できるようになった反面、個人個人の価値が薄れていっているように感じる。
個人個人の価値とは、「あなたである必要があるか?」といった問いへの回答だ。

最近進化している技術は、個人単位の表現力に直結していると感じる。
個人単位での表現力とは、「自分が何者であるか」を示すための大きなカギとなる。

自らを表現していく必要のある時代において表現力は欠かせない。
その表現の幅を広げるための手段が最近登場している技術であり、それについて学ばないのはどうなのかと思う。
これはAIやブロックチェーンなどのまだ全貌が見えない新技術の話だけではなく、tiktokやyoutubeなどの動画サービスやTwitterやinstagramなどのSNSやブログなど、それによって多数の認知を得ている人がいる中で、「何も着手していない」「何も学ぼうとしていない」と言うのは、自分の存在証明を怠っているような気がしてならない。


「個人単位の表現」の必要性については前回書いた記事を読んでいただきたい。


人間である証明

最近「AI絵師」による画像をよく目にする。
AIを用いて作成された画像は、本物と違いが分からないような人物の写真であったり、自分の好きなキャラクターを生み出せたり、独特な世界観を表現できたりと、様々な可能性を提示してくれている。

そういった素敵な作品を見ると、これまで以上に「自分である必要があるか?」という問題に直面する。
絵を描いても、写真を撮っても、文章を書いても、AIの技術に勝てない。
もはやプロでさえAIに勝てなくなってきている。

そんな激しい競争の中で、何の工夫もしていない素人が誰かに見つけてもらえるわけがない。
見つけてもらえたとしても、興味を持ってもらえるわけがないのだ。

だから私達はこれからの活動において、「素晴らしい何かを生み出す」という方向性から、「私である証明を生み出す」という方向へ転換していかなければならない気がする。


技術を追いかけないという選択

「私である証明を生み出す」ということが、「時代についていかないという選択」に繋がると考える。

「素晴らしい何かを生みだす」という事を目的にするなら、新しい技術を積極的に取り込んで、どんどん新しい表現をしていくべきだと思う。
しかし技術を追い求めた結果より一層他の人との差がなくなっていくような世界で、それを追いかけ続ける必要はないだろう。

新しい技術に対して、溢れかえる情報を闇雲に追いかけるのではなく、あくまでも表現方法のひとつとしてそれが自分にマッチしているのかを考える事が重要だ。
それより先の情報収集はもう趣味の世界なんだと思う。

今回は「個人の表現方法」という事にフォーカスしてAIなどの技術の話を中心にしたが、医療だって農業だってどんな分野だって日々新しい技術が生まれている。
それを追いかけるのはもはや仕事か趣味だろう。

そう割り切りながらも、新しい表現方法を探し続けるのは忘れてはならない。
アンテナは常に張り続ける。しかしキャッチした全てのモノに対して執着していく必要はないのだろう。
「私である証明を生み出す」ために最適なものだけを抽出していきたい。


社会に属する。人になる。

最近、「やっぱり人間って社会的な生き物だな」と感じる。
これこそが機械と人間の違いだし、社会こそが人の存在意義を生み出すものだと思う。

どれだけ立派な人間がいたって、どれだけ素晴らしい作品を生み出したって、それを評価してくれる場所がなければ意味がない。
つまり私達はこれから、圧倒的なクリエイターになると同時に、クリエイターとして評価してもらう土壌を整える必要があると感じる。

「世界的に凄い人」になろうと思うのならば話は違うが、殆どの場合、「今より人気になりたい」とか「地元で一番の人になりたい」程度の願望だと思う。
そうであるなら、なおさら「クリエイターとして評価してもらう土壌を整える活動」をしていく必要があるだろう。

私の場合、有名アーティストのライブに行った事がないし、フォロワー5万人くらいのアーティストの講演会的な物に誘われても興味がなかったけど、キャパ100人程度の会場で行われる友達が参加するライブには行った事がある。
これは説明の必要がないくらい理解できる感情だろう。

これからクオリティで勝負することがどんどん難しくなっていくのなら、そういった方面での戦い方も視野に入れて学んでいく必要がある。

そのために私は常々コミュニティの重要性を唱えて来たし、更にこれからはコミュニティ以外の方法で社会と関わっていく事もやって行こうと思う。

長くなったのでこれからの社会との関わり方についてはまた別の機会で書いてみたいと思う。

とにかく今は、全力で楽しむこと。
そして、全力で楽しんでいる人と繋がることを大切にしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?