【掌編】通学路 2

 実家に戻ってからの兄は実年齢より上のような気がした。日がな一日、仕事らしいことをしている。自分で撮った映像を編集している。他は何も知らない。年齢差もあって、会話が弾むことは少なかった。
 茶の間に男性何人かの声が飛ぶと、部屋へ避難した。彼らが帰る頃を見計らい、申し訳程度にドアを開け、声が途絶えたことを確認する。そんな性格だからか、母も助言めいたことは言わない。「もっと妹らしく」なんて口が裂けても言えない。昔から数えきれないほど、半開きのドアを採用してきた。兄の友人たちは、私の顔すら知らないままだ。
 玄関のカレンダーが暗黙の裡に見ている。中学最後の年を迎えた私を監視しては「もっと話せ」と急いている。
「大阪まで二本ってさ……」
 その夜、電話口から漏れた愚痴を思い出せる。女性の声だった。
 どうやら新幹線延伸について活発な議論を交わしているらしかった。
「大阪金沢間がなくなったわけでしょ。敦賀で止まるわけでしょ。切符、増えるわけでしょ」
 睦美さんが押し黙るわけない。度々、大阪に出かけては派手にお金を落としてきている。土産話を兄の口から聞いて、旅を愛している人なのだとわかった。
 サンダーバードが我が福井で終点。それも乗り換えのために停車する。この一大事に、思うところがあったようだ。
「でも、立ち寄れるからいいかもね。あなたのところ」
 不思議な人だと思う。石川県の人って、わざわざうちに寄ることは少なかったはず。金沢から大阪の途中、窓に見えるのは、私の今いる小さな町だ。ぴかぴかに眼鏡のレンズを磨いたって、変わらない。
「眼鏡の産地! 日本一! 金沢でも買えるよ」
 会話の中で、やけに強調するのも複雑だった。眼鏡は、石川でも買える。有名なのは、私ではない。
 ぼんやりしていると、「鯖江に行くよ。それじゃ」と捨て台詞が聞こえた。
 キッチンで電話を終えた兄を横目で見た。立ったままグラスを手に、残りのビールを飲み干した。喉仏がどくん、と動くのは面白かった。
「睦美が愚痴くらい聞いてくれっていうから。電話代も甘くねえのに」
 確かにメールを丁寧に打つ睦美さんは似合わない。隣の県なのに、この人はなぜかすごく遠い街にいる気がした。
 声がいつになく得意気だった。
「睦美の顔、見たことないよな?」
「……声だけなら」
 そうだ。隣で聞いているだけだ。
「ほら、これが睦美。ついさっき特急にいちゃもん付けてた美人」
 スマートフォンの画面を覗いた。初めて写真を見た。そこには、私の知らない年上の女性が兄の手を組んでいた。
 唾液も呑み込んだ。なぜこんな人と付き合っているのか、考えることすら無駄だとわかった。
「知ってるか? スマホだって鯖江のやつ使ってるんだぜ。この画面の元、ベルベット。鯖江の産業資材」
 そうだった。液晶パネルには、見えない所にこの町の技が宿っている。
「新幹線で東京が近くなってさ。俺たち、田舎が近いってだけで続いてるんだよ。俺の映像、あちこちに売り込んでくれるし」
 嬉しそうな兄から離れ、外に出た。
 ずっと先、線路の向こうにその人がいる。私より九つも上で、きっと高い美容室に通っている。
 また弾んだ声がした。
「なんだよ、兄貴の話聞かねえの?」
 耳を塞ぎたくなった。ついさっき写真で見た女性が目に浮かんだ。ショートボブで、小顔で、嫌みのない微笑み。まるでカメラレンズを味方にするような微笑み。同じ大学で出会ったらしい。出身地が近いため、話しも合ったようだ。今から五年前、私が十歳の頃に、テレビで見るような街に住んでいた。キャンパスに向かう背が、凄まじく大人だ。
 ノースリーブが似合っていた。紺色の生地ゆえに、肌の白さが際立っていた。中学からバドミントンをしている、と聞いた。運動をしない自分との比較をやめたかった。ラケットを持った私の横に、燕みたいな勢いでシャトルが落ちる。遥か向こうで睦美さんと兄が笑う。
 そんな風景は、一生なくていい。