鋼の夜 10

 大倉山駅前の光景は鮮明だ。
 例えば、拡声器を片手に長々と演説する男性を見ている。足を止める者はいない。まして一票投じようなんて思っていない。誰もが素通りし、腹の中で「うるさい」と思っている。
 一度だけ話しかけたことがあった。男性は驚いていた。自分の手から武器が去っていることに気付いた目だった。俺が横から拡声器を取り上げ、嫌がる顔を尻目に「帰れ、おっさん」と挑発したせいだ。
 現政権に不満があると駅前に出た結果、歩く市民の耳を塞いでいた。何が反対だ。何が反対だ。てめえらも噴火する火山の前では、今と同じように立ち尽くす他ないだろ。その時は自慢の拡声器で同じように訴えてみろ。きっと議席が増える。
 日本にアイスランド産の岩石を持ち帰ったら拍手してやる。
 やつら演説の背中は一応目立っていた。ちょっかいを出した俺に恐れたのか、次第に声も小さくなった。そんな街で、駅前で、また俺が問い詰めることになった。自業自得。俺もまた厄介な市民に過ぎないのだ。
 その夜は駅に続く坂が静かだった。レイキャビクに詳しくなるどころか、遠ざかっていくのを感じた。坂道を上がる途中、森全体が揺れる音を聞いた。
 引っ越したばかりの頃、梅祭りが開催していた。人の数は日曜の渋谷スクランブルと変わらない。一歩歩く度に誰かの足を踏みそうだった。縁日の店に子供たちが並んでいた。梅の花が咲き乱れ、のんびりビールを飲む大人も目に付いた。
 まさか同じ公園に戻るとは誰が思うだろう。散った花びらを安いスニーカーで踏んだ罰だ。佐崎が歩いた遠い国の道路、眺めたはずの地平線。それがようやく坂の向こうから転がり落ちてくる。授業で聞いた講師の言葉が痛い。「あの人は生きている」と何度も聞いた。
 だが大倉山の夜に淡い期待も希望もない。あるのは東横線の列車音と樹々の揺れだけだった。
 俺の後ろ、少し離れた位置にユーリが歩いていた。人生で一番長い夜に感じた。部屋を出る時、確かに「行く」と告げたのは俺だ。ユーリは夜風に揺れる樹を仰いでいた。蒸し暑い風がこの森全体を包み、歩く度に汗が滴り落ちた。やがて記念館を過ぎた辺り、下へ続く階段で足を止めた。
 ここからの道は細く、暗く、エルム通り商店街まで住宅が続いている。窓から漏れる灯りがユーリの白い肌を照らしていた。 
「殺したのはここか」
 俺は言った。
「たぶん、仲間が死体を運んでいるんだろ。キオスクに並ぶ雑誌のネタになるだろうよ」
 ユーリは昨日の男を殺したと言った。
 男の名前は知らない。ただ柱に佇む姿はやけに目立っていた。誰かが糸を引いていたのは感じていたが。
「……サザキ」
 嘘だ。耳を疑ったままユーリの次の言葉を待っていた。
「あなた、昨日サザキと会ってる。本当」
 馬鹿なことを受け流す他なかった。昨日、森で俺と待ち合わせた背の高い男が佐崎慈朗など誰が信じるか。ふざけるな。
「背の高い男が佐崎か」
「うん。私、殺した」
「三人を手玉に取ったわけか」
「……お金、ちょうだい。国に帰るの」
「日本人相手に白い股広げてろ」
「……あなたも侮蔑するのね」
「人殺しの女には侮辱以外見つからないからだろ」
「うるさい」
「二度と大倉山に来るな。俺たちアジア人はタダじゃ動かない。それにユーロ通貨程度で怖気づくほど柔でもねえよ。これ以上口答えしたら子宮にギザジューぶち込むぞ」
 ユーリは声を上げて泣き始めた。
 先に森を出たのは俺だ。腕時計を見た。まだ悪い予感はした。誰かが待っている気がした。そのまま記念館の傍まで歩き、左手の柵の向こうに広がる東京方面の夜景を眺めた。
 住宅街の窓から明るい灯が漏れている。遥か先に削った鉛筆くらいに縮んだスカイツリーが光っていた。
 土井はここから見えるわけがないと言っていた。一度も確認しないまま死んだ。さっきの女に魂でも抜かれたんだろう。目が眩むブロンドの体に、人生を狂わせてしまったようだ。あれだけ人の指図を嫌った男が面白いほどハマって、夜景すらも過去にした。馬鹿としか言いようがない。スカイツリーは確実に肉眼で見えるのに。
 今となっては金髪も眩しくない。もしユーリが国外へ逃亡していたら、きっとエーゲ海辺りで俺の悪口でも言いふらす。名誉だと思う。
 夜景から離れ、駅までの坂道を下った直後、一発の銃声が響いた。振り向かなかった。祖国へ帰る紙幣より、硬い銃弾を選んだようだ。東横線の最終便が音を立てて走り去っていくのがわかった。駅前には人がちらほら見えた。大倉山の街は、ごく一部を除いて昨日と変わらない明るさだった。
 ユーリの死体は紙面を賑わせたが、おそらく通勤ラッシュの時間には名前すら消えていたはずだ。白人女性の死体が大倉山公園で見つかった。こめかみに、見慣れない銃の痕があった。それら長い夜の出来事は、多くの足音によって過去になる。会社へ、学校へ、一分一秒の差もないほど正確に向かう彼らによって、完全な過去になった。ユーリが全裸で見つかってもだ。自慢の金髪が鮮血で汚れてもだ。極東の小さな島でくたばって本望だろう。ざまあみやがれ。
 坂道の途中で足を止めた理由。
 マンション前に三人の若者がいたのを覚えている。
 一人に見覚えがあった。松葉杖を付いて俺を睨みつけていた。背中にはぴたりと似たような年齢の男が二人、やはり同じ鋭い視線を俺に向けていた。
「どけ、潰すぞ」
 俺は右足で松葉杖を蹴飛ばし、建物内に入った。一瞬、頭上の防犯カメラと目線が合った。これで俺もいつかの土井同様、手錠が掛かる日も近い。
 マンションの廊下を歩いている間、さっき俺が威嚇した男の顔を描いた。あいつは土井が病院送りにしたグループの一人だった。足を折っても、相変わらず間抜けな醜い悪人面だった。  
 扉に鍵を挿し込んだ瞬間、マンションの外で声が聞こえた。ばかやろう、出てこい。ぶち殺すぞ。俺は奴らの声を聞き流した。あの夜と同じだった。拳を握り締め、静かに歩き、鬼の形相で襲い掛かる土井の横顔。何かに憑かれ、一向に手を止めない顔が未だ頭の中で息をしている。
 扉の先に腐りかけた死体が置いたままだった。ひどく汚れた若者が寝ている。血まみれで、カーテンの向こうから届く罵声を浴びながら。
                               (了)