創刊サンデージャーナル 9

「恥ずかしいけど、みんな通るんだ」
 Nの言うとおり、まだ〈開帳前の極細ドリル〉がいよいよ膨らみ、目覚めてパンツを汚す少年もいる。
 隣で聞き耳を立てる春野は、教育実習生のように頬を赤らめていた。
 男の子のからだ。その変化と感傷的な夏の断片。かつて春野も教室で騒いだ男子たちと同じ年だったのだ。おちんちんが、本人にも思いもよらぬ変貌を見せ、ついにはパンツさえも汚す神秘の瞬間に、今、初めて触れている。
 Nは思う。俺が今、十二歳だったら……。
 何をやってるんだ、この助平。夏の午後はとうに過去の産物なんだ。これ以上聞くと、セクシャルハラスメントになりかねない。
「先生、彼氏いるの?」
 続けてNは言う。
「よかったら、夕食一緒にどうかな?」
 完璧だった。夏の夜のナポリピッツァ。今晩こそ、夕食に招待しよう。
 Nの胸は躍った。市民プールには歓声が上がり、セミの合唱が始まったばかり。初めて姉のビキニを近くで見る、純情な弟もいる。
 店内にはカップルの他、OLらしき二人の客もいた。隣のテーブルから会話が勝手に聞こえてくる。だから、そんな男と別れなさいってば。でも婚期逃しちゃう。もう、全然人の話聞いてない。だってさ。ほら、また言い訳。
「え~、なんか意外。局アナなのにエンジニアって地味ぃー。もっとさー、お医者さんとかー、ごるどまんさっくすとかー、ぷろやきゅうせんしゅとかー、あいてー社長とかー、一つ星レストランオーナーとかー」
 Nの耳はピンと立った。人の話し声を聞く猫のようである。目の前に他人の妻、そして隣には仕事帰りのお姉さん。トイレに起きる親を恐れた真夜中と状況は似ていた。視線はさっきから同じテーブルにいる女性の服に注がれたままである。
 なんとシャツのボタンが外れている! 夏期講習を受ける男子生徒さながらの目線で、Nは春野の胸元を凝視した。冷静さを保とうと会話を続ける。あえて欲望とは名付けず、社会見学の一種だと言い訳しながら。
「たくさん飲んじゃった」
 春野は言う。慌しい日頃の職務から解放された顔だった。美酒のおかげで紅くなっていた。二人で乾杯をしたためか、笑顔が絶えない。ワインよりビール、と決めてグラスを合わせたあの瞬間、互いの頬が緩んだせいだ。
「ところでベルナルド・ベルトリッチの映画なんだけどさ」
 始まった。Nの小さな映画劇場。自分が観たイタリア映画を紹介したい。もっと観てほしい。酒が入ると、Nはラテン男性さながらの饒舌を誇った。
店の外に出ると、急に湿った風が押し寄せた。ついさっきまで話したテーブルが、まるで南極の氷の上にあるようだ。金曜日の夜、街は仕事帰りの人々であふれている。原始人がカメラを回せば、何かのパレードだと思うだろう。さすがに冬よりマスクの住人は少なかった。代わりにガスマスクでも頭から被れば、窒息は免れない。男女問わず、首筋にアナコンダの如く汗がまとわりつき、熱気は足の裏にも、背中にも離れようとしていない。肥えた人肉が闊歩し、痩せた裸同然の少女がところ構わず往来を繰り返す。そんな美しい未来都市、ディス・イズ・トーキョーは眠ることをまだ知らない。
「……すみません。私、ほんとは飲めなくて。でもせっかくご馳走になるなら飲まなきゃ失礼だと思って。頑張って、飲みました……」
 これは、期待できる。
 Nは胸のざわめきを抑えた。半ズボンのオタマジャクシ養成から二十年以上経っている。今度はスラックスの下から、夏の一揆が始まろうとしていた。
「あの、Nさん」
「どうしたの」
「……来週も、頑張ります」
 春野は言った。紅い頬。優秀な画家なら、絵の具でさらに塗りつぶすだろう。これが既婚者の余裕か。Nは心の中でつぶやいてみる。まだあげ初めし前髪の、雑誌に載った女神たち。大股を広げ、未知なる穴を黒い森で覆っていた。記憶の途中に、春野と似た女性がいる、と思う。
 さらに思った。裸エプロンで後ろから抱きしめたい。どこかの家庭で、思春期を迎えた夫の連れ子に同じ行為を受けるさまを描いた。和風ハンバーグに、オムライスに、カレーライス。それから豚汁も、すべて胃の中に収めよう。目覚めた瞬間から、エプロン姿の春野がちらついて離れない。よう、旦那。そろそろ俺の出番だぜ。そう毒付いてみるのも束の間、一人暮らしの部屋を見渡すのみ。手料理が食べたいと、今なら叫ぶことができた。林檎の下に、鈴虫が鳴く前に。
「酔い、醒ましちゃいます。今夜は、ごちそうさまでした!」
 夜風に髪が揺れても、春野のほっぺは紅いままだった。片足では到底立っていられず、オーディションに遅れたバレリーナのようである。
 
 一夜明けて卓球室の緑色の床には明るい日が反射していた。死刑囚が最後に歩く道の色とそっくりである。Nの中学時代は火の気がなく、真冬に白い息を吐いて練習していた。それが今や冷暖房完備の室内で、休憩用に使用できる。今朝も爽やかな晴れの空の下、笑顔が弾けている。昨夜の酔いも今いずこ、早足の鈴虫が遊びに来たら、球の音に美声をかき消されてしまうだろう。白いシャツもまぶしく、ショートパンツから伸びた脚も華麗に動いている。笑顔が弾け、夕食の献立を期待する。男性なら、誰もがそう思うに違いない。いや、待てよ。さすがに旦那がいる家へは邪魔できない。旦那が目の前の妻と知らない男性に興奮するなら、喜んで、喜んで遊びに行ける。
 ラリーは続いた。
「あの、Nさん。ちょっといいですか」
 Nは手を止めなかった。右手で打ち返しては白い肌に球を送った。左手は自由になるため、例えば後ろから鷲づかみも可能だった。もっと、距離が近ければ。
「編集長に渡す原稿、二編あったとお聞きしました。そのうちの一編が女の子と教師の話。私が読みましたよね。ずっと気になってたんですけど、もう一編はボツになったんでしょうか。ぜひ、読みたいです」
 春野からの球は確実にNの胸元へと届いた。両手を背中に回すには充分堪える。爪の痕が付けば、ほら、もう立派な大人。
 幸い春野の指先は綺麗に磨かれ、派手な色も着色していない。
「正確には、ゴンザレス氏に渡すのをためらったんだ。今も手元にあるよ」
 球が消えた。
 巣に急ぐツバメと同じ速さでNの喉元をかすめた。決まった。春野の必殺スマッシュだ。
「読みたいです。読ませてください!」
 Nはラケットを置いた。
「じゃあ、今から朗読するよ。これ、遠くの恋人について詠った詩なんだ」
「その前に、ラリーもっと続けましょう!」
「いいよ」
 球の音が再び響いた。
 くり貫かれた目玉のごとく、球は本当によく飛んだ。ツバメは口にくわえたその餌を、無事ヒナの元へと運ぶのだった。
 ラリーを終えたNは言う。
「やっぱりやめた。代わりに春野さんが読んでほしい。元々、誰かに読ませるための原稿だから」
「……旦那には、内緒でいいですか?」
「もちろん。僕だって編集長には内緒にするよ。盆前の朝から既婚者と遊んだこと」
 春野は原稿を受け取った。たった今、USBメモリからプリントアウトしたものだった。緑色の卓球室の中ではあまりに白く映えた。というより、そこには何も、一文字も書いていない。白紙であった。それは真夏の雲の色とよく似ていた。
「ところで春野さん。どうして原稿を読もうとしたの?」
 春野は答えず顔色を変えない。きょとんとしている。しかし不敵な笑みを浮かべると、両手をクロスし、一気にシャツを下から捲り上げるふりをした。
 ピカッと射し込んだ日の光のもと、春野は微笑んでいた。静かな朝だった。窓の外には、誰もいないように見える。(つづく)