鋼の夜 5
三十歳を過ぎた頃、俺と土井は派遣労働者だった。過去形を使ったわけは二度と戻らないとわかっているからだ。どこの会社も俺たちのような特別に能がない人間を集めている。
都市部はもちろん、田舎でさえ人力が事欠かない。困った統計学によると、人手不足をいいことに低賃金、低サービスを謳って現場に流しこむ業者が増えている。
土井とは今と同じ暑い季節に出会っている。汗を拭けば電車代が飛び、また翌日の帰りには喉の渇きを耐える。自販機の誘惑にはよく負けた。店に立ち寄るほどの現金がないからだった。
倉庫内作業には様々な人間が働いていた。主婦、フリーター、売れないお笑い芸人に俳優、ミュージシャン。土井は彼らと親し気になったことは一度もない。
ある日、映画学校に通っていたことを話すと、急に声色を変えて聞いた。「なぜこんなめんどくさいバイトしてるんだ?」と。
答えはこうだ。第一に、就職先がなかった。映画祭の入賞経験がない新人は大抵、プロダクションマネージャーに応募する。
制作全般のイロハをここで叩き込まれる。ロケ先での実直誠実な振る舞い、先輩スタッフとの華麗なコミュニケーション。もちろん、遅刻は厳禁だ。学校で求人を見る度、このような案件を素通りした。元来、人の言うことが聞けない性分で、おまけに口も悪い。誰かに気を使うほど出来ていないと自覚がある上、離職するのは目に見えている。
第二に、編集技術が足りない。これには諸説あり、どこからがプロなのかはっきりしない。「編集やります」と手を上げた時には、別の誰かが担当している。実績を作ろうと名刺を作って躍起になっている間、また金が尽きる。
そこで、手っ取り早い派遣バイトに手を出し、もはや憧れの業界に相手にされなくなる。
呆れた顔をしていた。土井は宝の持ち腐れとでも言いたかったに違いない。
なぜこんなめんどくさいバイトをしている? もう一つの答えは、仕送りを貰いながらの自宅編集だった。晴れて派遣労働者から脱却出来たわけだ。
初めて面会に行った日を覚えている。駅で迎えに行ってやると伝えた。土井の隣にいた刑務官は一度も目を合わせなかった。どうせろくな相手じゃないと思っていたんだろう。
だが俺たちの会話に鑑定士など付かないはずだ。古くからの付き合いに他人は関係ない。出てからの仕事については俺が面倒を見ると言った。土井が優遇区分に配属していたため、思ったほど面倒な手続きではなかった。
透明なアクリル板の向こうには顔色の悪くない受刑者がいた。「出てすぐに食べたいもの、あるか。あそこのパン、美味しいぞ」 と聞くと、「カツサンド」と答えた。
あの夜、若者五人の肉を砕いた日より穏やかに見えた。俺が止めに入るまで殴り続けただろう。一人は顔面が完全にへこんで人か何なのか判別はできないくらいだった。
「やめろ」と制止した直後、違う音が飛び込んだ。俺の部屋から持って来たパイプ椅子を振り下ろしたのだ。
当時の様子を率直に話した相手がいる。
と、土井は語り始めた。
男性はムショ内で誰よりも声が通るゆえ、新入りは時に恐れ、時に反発を繰り返す。土井も例外ではなかった。同じ作業場で顔を突き合わす内、異様なほどの冷静さ、言葉の強さに惹かれたようだ。例えば、「外でいい話がある」と耳打ちしても信じ込ませてしまう。
俺がなぜ、そのじいさんに付き合うのか聞くと、「笑顔で接してくれた」と言った。幸運なことに、大きな案件を聞いたのだという。
数日後、例の映像が届いた。差出人の名はない。だが土井に現住所を教えた人物は何を隠そうこの俺だった。
映画『天国の門』をノートPCで見終えた直後のことだった。平日昼間に三時間越えの赤字映画を見た罰だ、と思った。ついさっき見た映画とは無関係に違いないが、およそ計ったように届いた。
駅前に引っ越して数か月。一月の半ばから数えて、半年が経った。
あの作品も、この作品も、俺が借りた映画は店員のみが知っているはずだ。一人暮らしの男性が好む映画は、マイケル・チミノだけじゃない。これは全世界共通のルールだろう。まるで誰かがチミノの新作を届けに来たのかと錯覚した。
正直者はバカを見ると教わったことがある。その老人が誰かの力を借りたいのは目に見えた。シャバでのいい案件? 嘘っぱちだ。本当は映像に一定の知識がある人物を探していたのだ。そこで土井を呼び出し、面会相手の俺に白羽の矢が立った。
大倉山の駅前、徒歩十秒。坂道に面した五階建ての鉄筋コンクリート造り。そこの三階に生息している、三十六歳の出番だ。
きっと土井は俺の住所をじいさんに教えたのだ。
土井が塀の中へ戻る直前、「アイスランド」と漏らしたのを聞いている。じいさんと映像を結ぶ糸に違いなかった。
俺は外付けドライブにCDRを置いた。
冒頭、しばらくの間は真っ暗だった。
画面が切り替わると、カメラに向かって話す金髪の女が一人。手紙か何かを読んでいるようだった。どこの国の人か知らないが、これからモデルエージェンシーに行っても違和感はなかった。次の場面で女はハンドルを握り、車を発進した。前方には火山からの煙がもくもくと上がっていた。
画面は真っ暗になった。再び姿を現した時には顔を覆っていた。
その後、真っ赤な溶岩に切り替わった。レスキュー隊の車が数台ある。あっという間に道路を塞いで燃え続いている。灰色の煙を絶え間なく上げながら、辺り一帯すべてを吞み込むようだ。
音はなく、映像のみが淡々と流れるのみだった。人の姿はない。溶岩のそばに住宅街の屋根が点々とある。どうやら避難した直後らしかった。
悪い冗談だと最初は思った。古い洋画を見た後、見知らぬ相手からのCDRを受け取り、中身を確認すると、火山の風景が現れた。
アイスランドだ、と思った。
編集の仕事を請け負う俺に、金髪女の行方について託したのは間違いない。アイスランドは歌手ビョークの故郷。その印象の他は無知同然だった。
ブロンドの女は何を話した? 何を見た?
CDRと一緒に届いた写真が一枚ある。映像の中でハンドルを握っていた女だった。土井は写真に目を凝らした。知らない、という。裏に記載した番号を見せると、今度は押し黙ってしまった。
男は大倉山公園での待ち合わせを提案した。
俺から本当に連絡が来ると思っていなかったらしい。土井が慕う男性から届いたと告げると、男は言った。「現地に向かう気はあるか?」
単身アイスランドへ向かう意志を確認するためだった。一体、火山近くで何が起こっているのか。土井と尾高を連れて行く。それが会う条件だった。
大倉山公園の帰り、俺たちは坂道で一言も会話しなかった。先頭を歩く俺、二番目の土井、三番目に尾高。三人共に言葉を呑み込むように歩いていた。
部屋に戻り、間髪入れず映像を見返した。
翌朝、鶴見川で死体が浮かんでいると知るまでの間、何度も見返すことになった。