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「八犬伝」、小説と映画

山田風太郎の「八犬伝」を読み、上映中の、映画「八犬伝」を鑑賞した。

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https://www.hakkenden.jp/

山田版「八件伝」は、「南総里見八犬伝」現代語抄訳の「虚」の部分と、滝沢馬琴の人生とその戯作者魂が描かれる「実」部分が、交互の章立てで紡がれる小説だ。
ただの古典翻案でもないし、滝沢馬琴の評伝小説でもないが、小説中では馬琴の理解者として、葛飾北斎や渡辺崋山が登場する。
初めて読んだが傑作だった。

映画の方は、「虚」の八犬伝物語を映像としてまとめきれず、馬琴の人生を描く実の部分を、俳優陣総動員でトラマ化したように感じた。

それでも、小説前半の白眉、滝沢馬琴と葛飾北斎と鶴屋南北が、「東海道四谷怪談」をめぐって「虚実」や「正邪」について論争する部分は、脚本にも力が入っていて、いい芝居になっていた。原作を引用すれば以下の通りで、まさにスリリングな芸術談義になっている。勧善懲悪の馬琴が、この世はすべてまやかしという南北に圧倒される趣向。

【──いま、この奈落にいる三人の老人は、彼らが意識していようといまいと、まさしく江戸爛熟期化政の三巨人であった。馬琴は地上にうずくまる虎だ。北斎は天翔ける竜だ。が、それでも二人は同じ天地に住んでいるといえる。これに対して鶴屋南北は、実に彼らとは反世界の住人ともいうべき存在であった。
「いや」  
と、北斎が口を出した。 「まったくあの怪談はこわいねえ。曲亭さんの怪談は面白いが、南北さんの怪談はほんとうにこわい】

「南総里見八犬伝」の、因果応報がもつれにもつれる長大な物語を、山田風太郎は、原作後半の冗長な部分をバッサリ割愛して、簡潔かつ批判的にまとめている。原作になぞっているのは、怪童犬江親兵衛の登場くらいまでか。
その山田版八犬伝でも、映画として忠実に映像化するのは困難だと思うし、期待していた特殊撮影はややチャチ。今春公開された「陰陽師0」の特殊撮影の方が、迫力があって楽しめた。

小説も映画も、ラストシーンは馬琴の晩年に焦点を絞る。虚実交代の結構も無くなる。馬琴は白内障で目が見えなくなり、漢字の書けなかった嫁のお路が、悪戦苦闘しながら口述筆記のパートナーになり、「南総里見八犬伝」は完結する。

山田風太郎も、このエピソードを、江戸文学上の奇跡と称賛、ここで「虚実」が渾然一体となって、小説も映画も終わる。

映画「八犬伝」は、馬琴の「実」の部分に重きが置かれ、「虚」の部分はいささか物足りなかったが、山田八犬伝の映画化ならそれでいいし、ドラマもそこそこ楽しめた。

映画を観たことで、山田八犬伝の凄さをつくづく納得。
映画はともかく、小説は推薦します。

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