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牛肉を愛した偉人たち㉔ 開高健

 あなたが仮にプレミアクラスの黒毛和牛(ええ、産地は諸般の事情により伏せます)をご馳走になった場合、そのまさに後光がしている人物に対してどういった謝辞を述べたらいいのだろうか?
 自分の語彙力に早々とギブアップして「筆舌に尽くし難い」とか「えも言われぬ」とかでお茶を濁して相手をけむに巻くという戦法もある。とくに後者は今をときめく『源氏物語』やさらに古い『宇津保うつぼ物語』にも見られる由緒ある言い回しだから、四国近辺や和歌山県あたりでウツボを馳走になった場合には唯一無二の味方になってくれるはずだ。
 近年、国内のグルメ番組の跳梁ちょうりょう跋扈ばっこにはいささかげんなりするが、そこで登場するのがグルメリポーターや女性タレントなどが放つ食レポである。グルメリポーターはそれが商売であるから周到に用意してきて、千に三つくらいは感心するのがあるが、タレントの場合(彼女たちのことを俗に「食べタレ」と称する)は、技倆ぎりょうの優劣が激しすぎる。なかには何をかれても「おいしい!」としか答えられないやからや口に入れたか入れないうちにもう「これってやばっ!」とのたまうお笑い芸人。たしかに「おいしい」は味がよいの意の女房にょうぼうことば「いしい」に丁寧を示す接頭語「お」をつけて今日のオイシイとなったものであるが、こればかりを連発するのはおつむの程度を疑われる。わたしの敬愛する東海林さだお画伯はこうしたボキャ貧の食べタレたち称して「バカタレ」と呼んでいる。
 ちなみにグルメリポーターもごくたまに不味いものに出くわす時もあるらしいが、そういう時のためにこういう反則技すれすれを用意してあるということだ。新日本プロレスをアントニオ猪木と実況タッグで盛り上げた古舘伊知郎節で。
「いやぁ~好きな人にはたまらないでしょうねぇ」
 
 昔、与謝野晶子は弟子たちに、食べものの味のことを歌にむのはむずかしいからおよしなさいと教えたそうだ。言葉によって珍味佳肴かこうを伝えるのがいかに至難かをこの『みだれ髪』の歌人はよくわかっていた。
 しかし、一流作家にもなるとこうした仕事も舞い込んで来るわけで、なかにはわれこそはと舌なめずりして読者のために火中の栗を拾いに行かなければならない。さあ、ここで芥川賞作家にその奥義おうぎを伝授してもらおう。
 
『裸の王様』、『ベトナム戦記』から『オーパ!』
 開高健(たけし)は1930年大阪市天王寺区で生まれる。旧制天王寺中学校へ入学、太平洋戦争終結後、学制改革により、大阪市立大学法学部法学科卒業。卒業後は洋酒会社壽屋ことぶき(現サントリー)に入社。PR誌『洋酒天国』編集長でコピーライターの草分けとなる。『裸の王様』で1958年芥川賞を受賞。1964年、朝日新聞社臨時特派員として戦時下の南ベトナム最前線に従軍し、『ベトナム戦記』を発表する。反政府ゲリラの機銃掃射のもと200名のうち17名の生き残りを体験する。1981年紀行文『オーパ!』、『もっと広く』など一連のルポルタージュ文学により菊池寛賞を受賞。
 小説家はそれぞれ自分の世界をどう開陳していくかをあらそって生きていく。なかでも三大欲求のなかの「食欲」と「性欲」にしのぎを削る。後者については読者諸賢がわたしよりはるかに詳しいのでここでは割愛するが、開口大兄は生い立ちがその後の作品に影を落とすことになる。
 『最後の晩餐』(文春文庫)の「一匹のサケ」からその深淵を覗いてみよう。
  
  味覚は一瞬のうちに至境に達し、それを展開するが、しばしば一生つ
 きまとって忘れられない記憶ともなる。幼少時におぼえた味となると、そ
 れはもうどうしようもない一瞬の永遠で、たとえオニギリにオカカだろう
 と、弁当箱のすみっこの冷たいタラコだろうと、メザシのほろにがいはら
 わただろうと、これには易牙やエスコフィエなどの料理の天才諸氏も歯の
 たてようがない。
 
 そして次の文を読むと太平洋戦争がもたらした日本の一光景に愕然がくぜんとするはずだ。
 
  ところで読者諸兄姉みなさんは〝トトチャブ〟というものをご存
 知であろうか。字づらを見れば何かの魚のお茶漬かと想像したいとこ
 ろだが、そんなチャチなものではない。峻厳、苛烈をきわめたものであ
 る。ありとあらゆる料理の始原にあるもので、一度これを味わったらすべ
 てのものがおいしくありがたく食べられるようになる。水をたらふく飲ん
 でバンドをギュウギュウしめて空腹をごまかすことをそう呼ぶのであ
 る。朝鮮語でそう呼ぶのだと朝鮮人の友人に教えられた。今から三十余年
 前、私は毎日、これをやっていた。十三歳のときのことである。
 (中略)父はとっくに亡くなっていたから、稼ぎ手のない家のなかは戦争
 中の売喰いのためにがらんどうの洞穴のようになり、タンスのなかはこと
 ごとくイモやカボチャに消化されてからっぽであった。母は毎日、水の虫
 のように泣いていたが、二人の妹は泣く気力もなくてぐったり寝そべって
 いた。私は学校へ持っていく弁当がないので、いつも昼飯時になると、
 こっそり教室をぬけだして運動場のすみの水飲場へいって水を飲み、ベル
 トをしめつけ、そのあとぶらぶら歩きまわって、また教室へもどるという
 ことを繰りかえしていた。
 
 行動する作家、開高健はある日、ある普遍の法則を思いつく。タイトルの「エラクなりたかったら独身だ、スキヤキだ」から引用する(独身ではない作家は疑似独身生活を夢想する)。
 
  朝はそれですみ、昼はヌキメシでいくとして、晩はどうするか。何かい
 いズボラ料理はないものか。一回、なべを火にかけてコテコテと
 作ったら、あとは材料か調味料をポンポンほうりこんでいくだけですむよ
 うな、そんな簡単でうまい料理はないものかと、考えていくうちに、ポ
 ト・フ・ブイヤベース、ブルギニヨン、ボルシチ、シチュー、中華菜のあ
 れこれ。かつて食いまくった南船北馬の記憶が、むらむらワラワラと群れ
 になってでてくる。そのときどきの窓に射していた日光のたたずまい、男
 の眼の沈んだ輝やき、女の眼の陽炎かげろうのようなきら
 めくうつろい、遠い調理場での人声と物音、戸外の風の音、ひとつひとつ
 の〝場〟についての回想に、ついつい、ふけりたくなる。
  しかし、それは文字であって、キッチンではないから、私はからみつく
 蔓草つるくさをはらいのけるようにして、スキヤキだ、スキヤキと
 思いつめ、買出しにでかけるのである。スキヤキの鍋には、何といって
 も南部鉄の鉄鍋がイッチだという説がある。はじめにザクをイタメテて、
 つぎに肉を入れるか。肉をイタメてからザクを入れるか。割下を入れるか
 入れないか。それぞれについて、精細をきわめた論があり、私も知らない
 わけではないけれど、いまはそんなことをいってられない。私のつくるの
 は〝料理〟ではないのだ。腹につめるスタッフだけの原料でがまん
 するしかないのである。
 (中略)スキヤキ鍋も、三日、四日かかって火にかけなおして、お色直
 しをつづけていくと、さいごにはオカユともネコのゲロともつかぬ、一種
 異様な混沌こんとんに達し、朝眼がさめて台所へいって|蓋《ふ
 た》をとったら、思わずタジタジとなる。しかし、ここでひるんではいけ
 ないので、ガスのスイッチをひねり、できるまでうなだれて本を読む。
  エラクなるのは。
  しんどいデ。
 
 また、『新しい天体』(ちくま文庫)で三重県松阪市のすき焼き料理店「和田金」で賞味した肉についてこう評している。
 
  ちょっとあぶって色が変わるだけにとどめたところを金網からとって生
 醤油にひたして食べると、口いっぱいにミルク、バターの香り、豊満なか
 ぎりの柔らかく、あたたかい香りと滋味がひろがる。何しろ箸で切れるほ
 どの精緻さ、柔らかさ、豊熟、素直さなのである。
 (中略)……完璧すぎる。ここの肉は完璧だが、しいて欠点をあげれば、
 完璧すぎるということだね。
 
 「何かを得れば、何かを失う。そして何ものをも失わずに、次のものを手に入れることはできない」
 「悠々として急げ」
 などの名句を残し、文壇三大音声と揶揄やゆされ、釣りと酒と旅に明け暮れた大阪人は1989年12月9日、食道がんで死去した(享年58歳)。

                初出:『肉牛ジャーナル』2024年11月号
 

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