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牛肉を愛した偉人たち ⑧・ブリア=サヴァラン

 「君が何を食べているか言ってみたまえ。君が何者であるか言い当ててみせよう」
 「新しい料理の発見は人類にとって天体の発見以上のものである」
 「動物は腹を満たし、人間は食べる。知性ある人間だけがその食べ方を知る」
 「だれかを食事に招くということは、その人が自分の家にいる間じゅうその幸福を引き受けるということである」
 「料理人にはなれるが、焼肉師は生まれつきである」
 
 あまりにも有名なこれらの箴言(アフォリズム)はジャン=アンテリム・ブリア=サヴァラン(1755~1826年)の言葉である。ブリア=サヴァランはローヌ川近くのアン県ベレーの裕福な法律家の家に生まれた。判事、市長、議員、裁判所所長として活躍するかたわら、さまざまな学問と諸芸に通じ、隠退後の晩年に執筆した『味覚の生理学』PHYSIOLOGIE DU GOÛTは、日本では長いあいだ『美味礼讃』という訳書名で知られており、1825年彼が死ぬ2ヶ月前に出版された。美食家としての情熱と蘊蓄(うんちく)を傾けて、食べることが人間と社会にとっていかに重要であるかを説いている。
 私はこの原稿を書くにあたり、初めて『美味礼讃』(玉村豊男編訳・解説。中央公論社)を読んだのだが、予想に反して綿密な科学的記述が多いのには驚かされた。もともと玉村氏の愛読者でもあったので、オリジナルの文はともかく、その解説文にも大いに首肯する箇所が満載である。
 第1部、第1章の「感覚について」に始まり第2章「味覚について」、第3章「美味学について」、第4章「食欲について」以下第30章「ブーケ(花束)」までに多岐にわたり、第2部まで含めると758ページの大部の書である。
 第1章から順にもうひらかれた箇所を列挙してみる。
 
  第2章「味覚について」私は、嗅覚の参加がなければ味の評価を完全に遂行することはできない、と信じているばかりか、実は嗅覚と味覚は合わせてひとつの感覚を形成しているのではないか、さらに言えば、口が実験室であるとすれば鼻はその煙突ではないか、とさえ考えているのである。もう少し正確に言うならば、口は可溶性物質を味わうためにあり、鼻はそこから出るガス(気体)を味わうためにあるのではないかと。
 
 私は最近、リーズナブルな赤ワインをいかにより美味しく飲むかに日夜腐心している者だが、テイスティングで主嗅覚系の揮発性で小さな「匂い分子」を感知するほかに、あのウマやウシが交尾行動や社会行動などフェロモン分子を鋤鼻器官で検知するかのように鼻を挙上するフレーメン反応を試すことがある。
 
 第27章の「料理の哲学史」を覗いてみよう。
 
  フランスでは、17世紀までナイフとフォークは贅沢品と考えられていた。フランスにフォークが伝わったのは、1533年にイタリアからメディチ家のカトリーヌが14歳でフランス王子(後のアンリ4世)に嫁入りしたときとされているが、実際にフォークが使われるようになったのはもっとずっと後になってからである。『エセー』を著した文人モンテーニュ(1533~1592)も「私のようにがつがつ食うのは、健康を害し、食事の楽しみまでも損なう上に、みっともない。私は急いで食べるために、しばしば舌を噛む。ときには指を噛むこともある」(中略)。それどころか、17世紀になってからも、公式な宴会ではフォークを使ったルイ14世も、人が見ていないところでは手づかみで食べるのを好んだという。
 
 ブリア=サヴァランの時代は、まだフランスはかならずしも世界一のワインの産地というわけではなかった。ルイ・パストゥール(1822~1895年)が発酵の仕組みを解明してワインの酸敗を防ぐ低温殺菌法を考えだしたのは、ブリア=サヴァランの死後40年ほど経ってからのことである。フランス国内にも名産地として名の挙げられる地方があり、本書にもブルゴーニュ、ボルドー、シャンパーニュ、あるいはシャンベルタンとかエルミタージュとかいう産地や銘柄が登場するが、サヴァランが生きていた時代には、良質のワインが安定して生産される環境は整っていなかった、といっていいだろう。
 
  チーズについても、「チーズのないデザートは片目の美女である」と言
 いながら、本書で言及されているチーズの種類は多くない。現在のフラン
 スが誇る夥しい種類のチーズがパリで普通に食べられるようになるのは、
 鉄道による流通が一般化する19世紀後半以降であるといわれている。(中
 略)。
 
 これについてはフランス文学者の鹿島茂氏も著書『パリ・世紀末パノラマ館』(中公文庫)で述べている。かいつまむと、パリで牛乳を飲む習慣が民衆の間に広まったのは、18世紀の末から19世紀の初めだといわれている。この時代にパリでは朝食に硬くなったパンをカフェ・オレに浸して食べることが定着したからである。これもひとえに低温パスツリ殺菌法ゼーションのなせるわざで、ノルマンディーなどの牛乳の産地からパリまでの輸送が可能となり、消費に拍車をかけた。
 また、チーズについては「Brillat Savarin」と称するノルマンディー原産のチーズがある。手元の『世界のチーズ図鑑』(マイナビ出版)をめくってみると、1930年にパリのチーズ商が敬愛するサヴァラン先生の名を冠して作ったものであるらしい。これはフランス国内でも特に若者に人気が高く、チーズ専門店では売れ筋ベスト5に入るそうである。
 
  牛肉を食べる習慣は英国から始まったものとされ、ブルボン王朝時代(最後のルイ16世の在位は1774~1792年)にはまだ馴染みのない外国料理
 だったが、その後、ステーキにポンフリット(フレンチフライ)を組み合
 わせた一皿はフランス人の常食となった。
 
 第28章の「レストランについて」は玉村の解説文が興味を引く。
 
  諸説はあるが、パリ最初のレストランは、1765年にブーランジュ何某と
 いう男がパリ旧四区のプーリ通りにつくった「シャン・ドワゾー」という
 店だというのが通説になっている。彼は当時どの家庭でも食べているよう
 な肉と野菜のごった煮のようなスープ(ブイヨン)を「レストラン」と名
 づけ、リーズナブルな値段で、何時でも一人前から注文に応じてサービス
 する店を開いた。
  フランス語では、「修復する」とか「建て直す」というときに「レスト
 レrestaurer」という動詞を用いる。「レストランrestaurant」はその形容詞
 だから、「(からだを)を修復する、(からだを建て直して)元気を回復
 する」という意味になる。ふつうは建物や組織の立て直しとかに使う言葉
 だが、これを「このスープを食べると元気になりますよ」という意味で、
 肉や野菜のエキスを抽出したスープの名として使うことはそれ以前からお
 こなわれており、ブーランジュが発明したわけではないというが、彼はそ
 れを誰もが金を払えば自由に飲めるものとして宣伝し、不特定多数を相手
 の商売に仕立てたのだ。ブーランジュは、店先にこんなラテン語の看板を
 掲げたという。
  “venite ad me, omnes qui stomacho laboratis et ego vos resutaurabo”
 「胃袋の疲れたる者は我のもとへ来たれ、我が癒やす(restaurerする)で
 あろう」
  
 またブリア=サヴァランは「炭水化物を制限する食事法の父」とも見られている。『美味礼讃』の中でもタンパク質が豊富なものを食べるように勧めており、肥満の原因であるデンプン、穀物、小麦粉、砂糖を避けるように力説している。
 ブリア=サヴァランは70歳の冬、以下の辞世の歌を詠んでから眠りについた。
 
  私はいま旅立とうとしている はるかな遠いところへ そして再び戻る
 ことはない
  その世では どんなことがなされ どんなことが言われているかなんの
 便りもないので それを知る者は誰もいない
  しかし私はこの世でいささか善きことをしたので 安らかに死ぬことが
 できる 

                初出:『肉牛ジャーナル』2023年7月号

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