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牛肉を愛した偉人たち ⑳・ 北里柴三郎(下)

 ノーベル生理・医学賞受賞をのがす
 1889年に破傷風菌の純培養に成功した翌年、柴三郎は同じコッホ門下のエミール・フォン・ベーリングと共著で、ジフテリアと破傷風の抗血清療法を発表した。
 アルフレッド・ノーベルの遺言によって死後5年経った1901年、ベーリングは「血清療法、とくにそのジフテリアへの適用に関する研究に対して」の業績で、第1回ノーベル生理・医学賞を受賞する。
 当時、選考は3段階に分けられた。まず、国際的な推薦システムで候補者名をつのりり、次にノーベル委員会で検討を行う。それに基づき、カロリンスカ研究所教授会が最終決定を行うことことになっていた。
 各国から選考規定に該当した候補者は43名であった。日本以外はすべて西欧諸国で、ドイツが最も多く、11名であった。最も票を集めたのは犬の条件反射で有名なイアン・パブロフで33票だった。柴三郎にはハンガリーのブダペスト大学から1票あり、ベーリングとの共同受賞が推薦されていた。
 ノーベル委員会の最終報告では、ベーリングの名前はなくなり、蚊がマラリアを媒介することを発見したロナルド・ロスやパブロフが有力だった。しかし、カロリンスカ研究所教授会での最終決定は、委員会の勧告を完全にくつがえして、ベーリングの単独受賞となった。審議の過程は未だ明らかにされていない。
 なお、後世ささやかれる当時の日本人柴三郎への人種差別を理由とする明確な証拠は確認されていない。
 
 帰国後の北里柴三郎と野口英世
 1892年、6年の留学を終え、柴三郎は伝染病を撲滅すべく胸の高まりを感じながら帰国の途についた。
 『北里柴三郎 ドンネルと呼ばれた男・下』で長与ながよ専斎せんさいが福沢諭吉(2022年12月号掲載)を訪ねる回想がある。
  
  福沢諭吉と長与専斎は緒方洪庵が主宰した「適塾」でともに学んだ間柄だった。お互いに安政年間に入門している。長与のほうが九カ月ほど早く入学しているが、年下だった。塾内で指導力を発揮し、二人とも塾頭を務めている。(中略)
 「今日はちょっと相談があってやってきた」
 「ほうそれは珍しい」
  福沢は改めて和服の衿を合わせた。悠然とした動作をとりながら友人の相談事に高い関心を示した。
 「きみは北里柴三郎を知っているな」
 「ああ、細菌学者だ。活躍ぶりはきいている。確か、きみが局長時代に留
 学したのだろう」
 「そうなんだ。そればかりではない。わたしが医学校の校長をしていると
 き、かれは本科生で入ってきた」
  何かと縁のある男だ、気になっていると長与は言った。
 「その北里の件で、きみに相談がある。じつは昨日かれに会ったのだが、
 家でくすぶっているので驚いている」
 「家で……。内務省に出仕していないのか」
 「一応、中央衛生会の委員ではある。だが、これはかれ本来の仕事ではな
 い」(中略)
 「多忙だと思っていた」
 「違うのだ」
 「世界に知られたコッホの下で研究してきた細菌学者だろう。それを放っ
 ておくのはじつにもたいない話だ。国家の損失でもある」
 「まったくだ」
 「国の恥だ。どうしてそんなことになっている」
  福沢は義憤を覚えたのか、いつになく強い口調になった。
 「北里の知識や経験を生かす研究の場がない。それと、東京帝大医学部の
 教授たちに冷たくあしらわれている」
 「帝大の教授連というのは、とかく閉鎖的で傲慢なものだ」
  福沢は私立大学の経営で辛酸をなめている。文部省や帝国大学の容喙ようかい瑣末さまつ執拗しつようだったので苦々しく
 思っていた。官は私立の存在そのものを侮り、軽視していた。
 「だが、研究の場がないというのは深刻だな」
  福沢は感想を洩らし、実験はどこでしているときいた。
 「実験はできない状況にある。これは深刻で、研究者の手足がもぎ取られ
 ているのに等しい。北里としては、コッホがベルリンに建てたような伝染
 病の研究所をこの日本に作って、研究できないかと考えたようだ」
 「何とかできないのか」
 「そこだ。わたしなりに少し動いた」(中略)
  柴三郎は今しがた帰っていった長与専斎の用件を胸のなかで繰り返して
 いた。
  帰国した柴三郎は三十九歳になっていた。電気もなくランプの下がっ
 た、東京・麻布あざぶにある二階建ての粗末な借家に住んでいた。
 「長与先生はどんな用事でしたの」
  妻の乕(とら)が茶菓子を片付ける手を休めて聞いた。二十五歳の妻には
 丸髷が似合っていた。
 「紹介したい人があるというのだ」
 「そうですか。どんな方ですの」
 「福沢諭吉という人だ」
  柴三郎にとって、この日初めて聞いた名前であった。
 「それはたいした方ですわ」
 「何だ、乕は知っているのか」
 「ええ、たくさんご本を書かれていますし、学校教育に熱心な先生です」
  乕は読んだことのある『学問のすゝめ』の話を少しした。封建道徳を打
 ち破り、独立や平等を説く項目は乕にも新鮮だった。
 「そうか。進んだ人だな。会うのが楽しみだ」
  ドイツ流の学問精神も理解してもらえそうで安心だった。
 「それにしても仕事がないというのはつらいことだ」
 
 長与のはからいで柴三郎は諭吉と初面談が叶うが、ここで大酒家の私も賛同するシーンがある。幼少の頃、月代さかやきを剃るのが嫌いだった諭吉に母親が「散髪すれば酒を飲ませる」と説得して散髪していたことや断酒中であっても「ビールはアルコールではない」と言って飲んでいたそうである。ではさっそく引用します。
 
 「ついては、できるだけのことをしたい。学者を助けるのはわたしの道楽
 だ」
 福沢は微笑みながら長与のほうに眼をやった。
 「道楽とはまた、刺激的な表現だな」長与は肩を揺すって笑った。
 「学者というのは酒飲みと同じだというのがわたしの意見だ」
 「どういう意味だ」
  長与が首をかしげる。
 「酒飲みは黙っていても我慢できずに飲む。学者も学を好んで、放ってお
 いても研究に励む。だが、今の北里くんは気の毒だ。学ぼうにも、その場
 所がない」
  福沢はひと呼吸置いて続けた。
 「芝にわたしの土地がある。そこにとりあえず研究所を建てたらどうだろ
 うかと考えている」
 「えっ、研究所を」
  柴三郎が思わず声をあげた。
 
 1894年、柴三郎は香港で大流行した「黒死病」の原因であるペスト菌を発見するという大偉業も成し遂げた。順風満帆に細菌学の研究や国内医学の地位向上に務め、門下生には赤痢菌を発見した志賀潔や野口英世などの世界的な権威を輩出する立役者となった。
 なお、柴三郎と英世は23歳違うが、まさか死後百年近く経過して日本国紙幣の肖像として自分が採用されるとは夢想だにしなかっただろう。そして、よもや息子のように年端(としは)の異なる英世のあとがまに座するとは。
 
 牛肉を愛した柴三郎
 さて、ここまで書いているうちに、賢明なる読者諸兄はうすうす気付いている筈である。この拙文のどこにも牛肉の二文字が出てこないことに。私も当初あの威風堂々たる恰幅ある柴三郎像から牛肉愛がほとばしっているように感じたが、裏付け資料がまったく見つからなかったのである。そしてあろうことか、柴三郎の好きな食べ物はなんとキュウリとキャベツだったとのことです。
 ええ、でも私は諦めません。細菌学の世界では菌の増殖に培養基(当時はそう呼んだ)が必須のものである。若かりし頃、柴三郎は「しばしも怠ることなかれ」が口癖のコッホ先生から沢山の難課題を与えられ、寝食忘れて深夜まで実験に明け暮れる日々でした。そしておそらく獣肉ペプトンや牛肉エキスを用いて自家製培地もせっせと作製したと推定されます。
 そして、後年功成り名を遂げた柴三郎の脳裏を去来したのは自分をここまで育て上げた愛すべき「牛肉」だったのです。

                初出:『肉牛ジャーナル』2024年7月号
 

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