【日記】阿吽がなくなる世界、、、
「阿吽の呼吸」ってありますよね。日本人は特に空気を読むといいますが、細かく話さなくてもお互いに分かる、コミュニケーションできるという意味ですね。
この阿吽の呼吸は同じような価値観を持っていないとできないです。言い方を変えると同じ経験を持っていないとできないです。言葉はメタファーですから、その言葉から想像することが似ていないと、その意味を共有することはできないということになります。
「まるで正月に犬吠埼から日の出を見るようだ。」と言っても犬吠埼を知らなければ分からないですし、正月に日の出を見たことがなければ共感できないですよね。
「阿吽」はコミュニケーションの基本ですが、一緒に苦楽をともにしたり、共同生活したり、旅行などで同じ経験をしたりと、そういう記憶に残る体験を一緒にした者同士がなし得るものでもあります。
家族、チームメイトが代表でしょうね。それ以外でも、会社の同僚などもそうでしょう。
でも最近、コミュニケーションがとても取りづらくなってしまっています。僕でいうと、「ノミニケーション」ですね。やはり、飲み会や会食を通して、お互いを知り、業務以外の個人的な話をして互いの価値観や距離を縮めていた感があります。それが今はできない、、、。
お互いの価値観を知らないままに、コミュニケーションミスが多く生じているような気がします。僕に限らず。
人はやはりコミュニケーションをとって群れて協力し合って存在する動物です。でもそれが今、危機に見舞われているように思います。
確かにリモート、オンライン、テレワーク、、、様々なツールや工夫でできることもありますが、価値観を共有するところまでは難しいのではないかなと。社員旅行や、歓迎会、懇親会、そういったものがことごとくタブーになってきている現在、その穴を埋めることができずに進むことでコミュニケーション不足から大きな損失が起こってくるように感じます。
うつが増えているとか、自殺が増えているなど、経済的なこと以外にも、コミュニケーション不足から既に問題が露呈してきているように思います。
グルーミングというのは、動物が互いにノミをとったり毛繕いをすることですが、親と子、仲間同士の身体的コミュニケーションです。そしてこれが心の安定や、利他的な役割の発育に重要という記事を読んだことがあります。
現状は、まさに人のグルーミングが抑制されている時代です。これからどんな現象が待っているのか、、、。より利己的に、より孤独に、より誤解の多い社会が待っているように感じます。
少なくとも、家族とのグルーミングを大切にして、仲間とも可能限りグータッチでもいいので接触をなくさずにいたいなと思う今日この頃です。