深川ベーゴマ対戦記③(ベーゴマ考83)
松下名人を訪ねて
ベーゴマのお仕事・・・・(ってなんやねん)
で、聖地川口に行くことになったので
あいたい人に会いに行くことにした。
よって前日入り。
前に「ちっちのち」の由来の話を含めて
電話で聞き取りをさせていただいた松下名人。
現在療養中で動けないとのことをうかがったので
図々しいことは承知で
ご自宅に会いに行っていいかをお聞きし、快く快諾いただいた。
赤羽に行くために昼着でもいいかなと思っていたのを
始発に変更。
ちいさなベーゴマも約1000個持っていると30キロの重さになるわけで
いままでの出張などの中では間違いなく最重量の装備とベーゴマ量で関東に向かう。
4:45 家出発タクシーを呼ぶが、まだやってないと6件に断られやむなく自力で駅に向かう
5:15 駐輪場からビルのエレベーターであがろうとするが、まさかのエレベーター6時から
5:27 始発電車に乗る。 10分後 非常停止信号を受信。10分とまる
5:50 新幹線出発10分前に新大阪につく。エレベーターにいく時間なく30キロ担いで走る
6:00 新幹線 疲れて寝るw
東京駅 数段の階段が多い。多すぎる。世の中はバリアフリーじゃないことを荷物の重量で知る。
そして、思ってたより遠かった。
10:15
ここはどこw
迎えに来てくれました
軽やかに
さっそうと車を運転して迎えに来てくれはった。
家について、奥様にご挨拶。
掘りごたつ状の居間でお話を聞く。
松下さん 昭和13年生まれ
お兄さんは大正の終わり
親父さん 明治28年生まれ
深川に生まれた
アサクサノリというのは浅草までは海だった名残
深川は両国からずっと埋め立て地だったから、地面掘ったら昔の貝が埋まっていた
奥様は世田谷の方
「うん。この同心円のやつはあった(大正期)」
大正期の大型のベーを見ていう。
デザインは金坂が持っているもの(関西の鉄バイ)より
もっと内側の渦がぐるぐるしていたらしい。
高さが高いものがのっぽベー
戦争中の話
1945年(昭和20年)3月10日
この日の空襲は10万人以上の死者を出し、東京大空襲と呼ばれる。
東京が空襲で焼けたときに
私より上の人たちは集団疎開していた。
松下さんが
小学校にあがるときの3月に東京は空襲にあった。
実際に見てるのは私の世代。
上は疎開でいない
下は記憶がない
記憶がある子どもは私の世代くらいしかない。
家も学校もすべて焼けた
学校の黒ずんだ壁は人間の油のあと
ぎゅうぎゅうになって焼け死んだ
上野の地下道に戦争孤児
四つ角に死体が山になってた
疎開からお兄ちゃんたちが戻ってきても
だれも信じない。
火は立ちあがる形ではなく、
地面や水の上を這うように燃えていく
けど戻ってきたお兄ちゃんたちは
「松下!うそをつくな!!」っていう
信じないし想像ができない
学校が燃えたので
1年生時の疎開先が足立区、
学校には兵隊さんがいたから
銭湯の中を三つにくぎって、
学校の勉強・・・・14時まで銭湯学校。
先生のほとんどは代用教員(奥様のお兄さんの同級生(3つうえ)とか)
深川に戻ったけど2年生として
認められなかった。(証明がない)
その為1年生をもう一回することになった。
ベーゴマの思い出
戦争が激しくなった来た頃には
もうベーゴマはない
そもそも親・近所の人たちにも
ベーゴマやってることばれたらあかん
「戦争中に何しとんねん、警察連れてくよ」
と怒られた
ずっとベーゴマ自体なかった
無かったから
兄貴の鉄工業をやってる友達とかに頼んでつくってもらった
代用品の瀬戸ベーは(金坂がもっているのより)もっと土の色
もう少し茶色で
8角だの6画だの削って使った
ガラスのベーゴマは
深川は芯がついたひねりごまのようなタイプであった。
加工できないので面白くなかって流行らなかった。
(金坂の持っているのを見せたら、深川はこのタイプだったと確認できた)
それらを
裏の路地とかに埋めてばれないように
隠していた
駄菓子屋にベーゴマがでてきたのは戦争後
一緒に勝負する時
同じものを使いたいから
基本は
WMTRHKの六大学野球(古い鋳造タイプ)
をみんなつかった
うまくなった子はのっぽベーを加工した
駄菓子屋で3円くらいでのっぽベー(うずが多い)を売っていた
掛け声は
深川は
「いっしょんせ」
だったのを兄貴達が面白がって
いっちょんべ(しょんべん)
っていいはじめた。
かくれてやるときは
しーしーしーの意味で
「ちっちのち」
ちいさくちいさく
褒めるも叱るも地域みんなで
いろんな悪さをした
米屋さんのおがくず小屋に忍び込んで
みんなでプロレスごっこしていた時、
番頭さんがそれに気づいてバー――――ンって鉄扉をしめてしまう。
そんでもって番頭さんが
親にいいにいく
「お宅の息子がうちのおがくず小屋しのびこんで悪さしとるわ」
当人たちは小屋の中に閉じ込められて
なんもできん
親と番頭さんが話合って、鉄扉の前で一芝居
「うちのバカ息子が、大変申し訳ありません。しっかり聞かせますよって、あけてもらえませんやろか」
※東京弁がわからんw
中にいる松下さんたち悪ガキには
自分の親の謝る声が聞こえるわけだ。
自分でけつを拭けるならいいが、
親に迷惑をかけたってのはこれはあかん。
なによりも、こたえて反省につながるわけだ。
・・・・・同じように私も偉そうに不貞腐れて
もたれかかって某場所の椅子に座ってたら
いきなり
隣の部屋から
おかんの謝罪の声が聞こえてきたことがあったな・・・・。
かあちゃんあの時は悪かったなぁ。ごめん
またある時は
近くの銭湯の煙突に勝手に登るのが流行した
30Mのぼって、そこに印として傷つけてくる
「お前すごいやん。やるやん」って
仲間のうちでヒーローになる
けど
きづいたら、それより上に傷をつけてきたって言う猛者があらわれる。
死ぬかもしれない怖い状況を超えてやってきたってのが
尊敬のまなざしで見られる。
小さいころに喧嘩して
煉瓦あたまにぶつけられて
血が垂れる
そんなんばっかし
チャンバラやって
ケンカもしょっちゅう、いたずらも
ばねデッポウでも
あたまにつけて撃ったら血がでる
そんなもんやった。
歯科技工士のこと
戦後手に職をつけるため
歯科技工士になった。
資格制度ができるまでは
小僧で親方に弟子入りする。
それまでは家業にちかい。
ねぇさんの旦那が職人やった。
昭和30年に
歯科技工士は国家資格が必要になった。
松下さんが国家資格第1号
歯科技工士はすべての工業を網羅する仕事
・薬品つかう(塩酸も硝酸も)
・左官
・鋳造(金属を溶かす)
・削る
・加工
※なるほど、歯科技工士は
最強のベーゴマ加工士になれるわけや。
今の子どもたちに思うこと
いまの子どもたちは「本気で夢中になれる」ことがない
夢中になれることってのは
何も考えないで、自分の満足いくまで一生懸命できること
今の子どもたちは失敗する経験ができない
チャンスはあるのに
学校も学童もそれを許さない。
便利すぎる
ナイフもつかえない
いろんなところにボランティアにずっといっていた。
ベーゴマの指導も竹とんぼも
けど今は
親子教室でも竹トンボつくれない。
当時(今もか)学校は遊び道具を持っていけない
ベーゴマも
ビーダマも
メンコも
もっていけない
何もないから
学校では遊びが生み出される
道具ないから
三角ベース
ないからこそ創意工夫
針金一本でも遊べる
みんな
道具から作る
何をやるにしても全部大人が準備してやるのはいかがなものかと思う。
なので、あなた(金坂)のような視点(不完全な状況が工夫を生み、面白さになる)を持っている人
かつ、ベーゴマの歴史を残そうと思ってくれる人がいてくれることが嬉しい。
あそびは自分の一生の生活を模倣
ままごとだって真似
最後に
剣道してたと聞いて、
てっきり私と同じように
幼い頃からやってたのかと思ったら
剣道は45歳の時に
息子さんと一緒にはじめたようだ
今は五段…ごっついで
グランドゴルフのクラブも
ソフトボールのクラブもつくった。
工房を見せてもらった時
竹蜻蛉もみせてもらった
ひさしぶりに伝承型のトンボでこんなに美しいものをみた。
ゴム鉄砲も輪ゴムで止めてないw
竹釘で組んであった。
ひとつひとつの技術がすばらしいのだ
松下名人は
自分と同じ凝り性で
いろんなことを
楽しめて
熱中できる人
「熱中人」だと感じる。
だから
どこの一部をみても
中途半端じゃなくトコトン突き詰める様子が見える。
居間のうえにかざってある
ひ孫さんたちの写真があったかい。
世界最強のおじいちゃんかもしれん。
松下名人
次は床を囲み対決したい!
奥様もこころよく
迎え入れていただいたこと
ありがとうございました。