見出し画像

飛脚仲ニさん、なにしてはりますのん?(ベーゴマ考81)

昨日、「飛脚仲二 嵐吉三郎」の錦絵を調べる中で
「時再興在原系図」の絵尽し(歌舞伎の事前プログラムのようなチラシ)に
新たに確認したバイまわしのシーンがあることは昨日、紹介した。

しかし、
カキツバタのところで、
仲ニが、百松といたこと、
百松が杜若折ったことで殺されそうになること
はわかるが、
バイ回しをしていたシーンの説明はない。

仲ニさん…で、なにしてはりますのん??

ということで
この時再興在原系図の元になっている、
浄瑠璃の演目である「倭仮名在原系図」の方にもばいまわしの
シーンが存在するのかどうかを調べて
ストーリーの解読をめざした。

より古い方の話「倭仮名在原系図」で探してみる

早稲田大学文化資源データベース
倭仮名在原系図・絵尽しで検索していった。

「倭仮名在原系図」は
浄瑠璃。時代物。五段。浅田一鳥らの合作。宝暦2年(1752)大坂豊竹座初演。在原行平と松風・村雨姉妹の恋物語に、惟喬これたか・惟仁これひと両親王の皇位継承争いをからめて脚色。四段目が「蘭平物狂らんぺいものぐるい」の通称で知られる。

いくつかの絵尽しがヒットしたので
ひとつづつ確認していく
ほとんどのものは他の演目と同時上演した
絵尽しであるため、そこまで、本作品に分量をさけず、一番有名な4段目の「蘭平物狂」のみの挿絵しかなかった。(もしくはそもそも、現代と同じで蘭平物狂しかやってない)

しかし、一冊だけこの演目のみの絵尽しがあり
今まで確認できていない
他の「ばいまわし」の映像を確認することができた。しかもこの物語が作られた初演。宝暦2年(1752年)に、大阪の豊竹座で上演されている。「倭仮名在原系図」の絵尽である。
なので、嵐吉三郎が演じた文政3年(1820年)の飛脚仲二よりも約70年前である。



拡大してみるといろいろみえてくる

拡大すると
今回も「杜若(カキツバタ)」のシーンであることがわかる。
前回の絵尽しや嵐吉三郎の錦絵では
床の形状は四角の木箱に様なものにゴザを引いたTHE関西型の床であった。
しかし、今回は、まるい桶にゴザを引いたものである。

これはどこかで見たことあるな・・・・。
と自分の記事を検索。
1712年(正徳2年)に刊行された、和漢三才図絵の十七巻 遊戯にでてくる 「海螺まわし」と同じ形だ

和漢三才図会の床と同じ

そして、このことを川口市歴史資料館の井出先生に伝えたところ、
この豊竹座の初演
この浄瑠璃のもう一つのチラシが見つかった。
こちらは興行主である豊竹座の名前や
三味線などの担当者の名前が確認できる。
「芝居の番付」というようだ
さすが書き下ろしにちかい。初演だ。

出典元は、 「人形芝居番付集」 東京大学デジタルアーカイブポータルです。
※折り曲がった冊子のため、ふたつのページをくっつけています。

https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/76ca6969-7246-4608-8555-efbbe1d92ebf?pos=3

飛脚仲二はほぼ一緒
カキツバタがあるところや
床が丸い所も一緒。

こっちに描かれた子どもたちは紐をなめていたり、肩をめくって投げてたりと躍動的でバイ回しを強く回そうとしている姿が見受けられる。

初演の五段全てをふくめたチラシにばいまわしのシーンを挿絵に採用したと考えると
このシーンが在原行平と松風・村雨姉妹の恋物語に、惟喬これたか・惟仁これひと両親王の皇位継承争いをからめた印象的な場面なのではないか。


絵尽しの文字を解読してみる

そして、今回確認できた
「倭仮名在原系図」の絵尽しには気になる文字が・・・・

二行目に「ばいまわし」と読める箇所が確認できる・・・・。
これは間違いなくこの情景が、意図的なバイまわしのシーンであることを示している。
うれしくなって
井出先生に画像送ったら。早速学芸員さんが読解してくれた。
すごいぞ。川口市郷土資料館!!!!

この画像①の文字は
いづらひきやく仲二 状をあまたもち
ばいまはしに 見とれゐる

(訳・どれどれと、ひきやく仲二、書状をたくさん持ち、ばいまわしに見とれている)

②又介の子 くら吉 ばいどくに かち よろ こぶ

③仲二の子 百松 ばいまはし にまけて はらを たてる

つまり、ほんまは百松の方がうまいはずなのに、くら吉がバイまわしに勝って
百松は腹を立てている様子。
またその様子を書状をたくさん持った飛脚仲二(惟高親王)が見ている

という内容になる。

百松は飛脚仲ニの子どもだったのだ
バイまわしで負けたから腹立って、「カキツバタ」を折る禁忌を行ったのではないか。

隣のページに
籠かき又介 まことは はた蔵人
とあるそうなので、これは 籠を担ぐ職人の又介、その正体は蔵人
ということなので、
昨日の文献と照らして超現代語訳にしてみる

内容を現代語訳してみる

・この物語の悪役 橘副純という人が二条という人の奥さんのことが好きになって気に入っちゃって横取りしようとしててややこしい状況になってる。
・行平はこの時須磨に流されていて、弟の業平は、この二条さんの奥さんを連れて身を隠す。
・(金剛太郎が須磨に行平の赦免状をもっていく)
・隠したもんだから、蔵人の妹をこの二条の奥さんの身代わりとして潜入させたがばれてやばかった(なんとか助け出す
・須磨で行平は橘副純の命令で行平殺されそうになったりならなかったり、行平は京に戻るため、松風が追いかける
・業平は二条の奥さんと三河に落ちていく、その途中でならずもんに襲われて蔵人に助けられる。
・滝の小川で仲二の息子百松が禁断のカキツバタをおってしまい、殺されそうになる。
・蔵人が自分の息子を身代わりにするかわりに、仲二の娘を二条の奥さんの身代わりに差し出すことを提案。断られる。
・奥さんになった蔵人の妹を仲には保証しそのあとで飛脚仲二は自分の正体を明かす・・・・・。
・正体を明かした親王は息子と旅に出る。
→蘭平物狂へ


うーーーん

ぜんっぜんわからん。
なんだこのとっ散らかった内容は。
この時代は複数の奥さんもいる時代なので余計にわけわからん。というかいろんな話がくっつきすぎておかしくなってる感じがする。

現時点で
「伊勢物語の在原業平と藤原高子のカキツバタの恋物語」と
須磨に流された
「在原行平と松風・村雨の恋物語」
「文徳(もんとく)天皇の第一皇子惟喬親王と、第四皇子惟仁親王の皇位継承争い」
の3つが重なっている。

この伊勢物語ででてくる藤原高子は惟仁親王のちの清和天皇の妻であることから
友人でもあった業平と飛脚仲二である惟喬親王は清和天皇に対しお互いに微妙な感覚を持った者同士である。

ということは、この物語は
基本は伊勢物語ベースなので
二条の奥さんを連れて身を隠した在原業平
藤原高子の別称は「二条后」なのでもろこのお話である。

伊勢物語の東下りから「禁忌のカキツバタ」の意味を考える

『伊勢物語』は、在原業平(ありわらのなりひら)彼が成人してから亡くなるまでの恋の遍歴を描いた物語と、詠まれたとされる和歌による、歌物語です。数ある恋の中でもセンセーショナルなのが、藤原高子(ふじわらのたかいこ)との恋。高子は、次の帝の許嫁。皇后になることが決められていた女性でした。歌を詠み交わし愛を育んだ2人は駆け落ちまでするのですが、もちろんうまく行かず、引き離されてしまいます。有名な『伊勢物語』の第9段「東下り」は、そうして傷ついた業平が「都に居られない」と、友を連れ東へと旅に出るお話です。

八橋は、現・愛知県知立市(ちりゅうし)の地。カキツバタの群生地として、今も昔も有名です。川の流れが入り組んでおりなかなか橋を架けることができず、何枚かの板を互い違いに架け、ようやく向こう岸へ渡れるようになったという昔話から「八橋」と呼ばれるようになりました。業平の一行が八橋の地に入ったときも、カキツバタが見事に咲いていたそうです。仲間の一人が言いました。「業平、カキツバタという字を句のはじめに使って、この旅の心を詠まないか」。そうして詠まれたのが、有名な八橋の歌です。

唐衣 きつつ馴れにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
(「か」らころも 「き」つつなれにし 「つ」まあれば 「は」るばるきぬる 「た」びをしぞおもふ)

~(何度も着て身になじんだ)唐衣のように、(長年なれ親しんだ)妻が(都に)いるので、(その妻を残したまま)はるばる来てしまった旅(のわびしさ)を、しみじみと思うことです~

歌の全体を覆うカキツバタの風景と、対照的な喪失感。旅先で誰かを恋しく想うのは、千年経っても変わらない感覚なのだと教えられます。

※西村花店参考 https://florist-westvillage.com/archives/19214/

「伊勢物語」のこのエピソードを踏まえると

今回の業平と后が三河に落ちていき、非人に囲まれているのを
駕籠かきに返送していた蔵人が明神の社前で救うという内容の
この舞台の場所は愛知県知立市、江戸時代東海道三社の一つ「池鯉鮒大明神」のことと思われる。
そして、多くの観客は
業平・カキツバタと出てくると、「藤原高子」を連想したであろう

御位争いの世界

今一度、惟喬親王と、惟仁親王の皇位継承争い
について復習してみよう。

「御位争い」とは皇位継承争いのことです。「御位争いの世界」の代表的な芝居が『倭仮名在原系図(やまとがなありわらけいず)』で、「伊勢物語の世界」に属する芝居でもあります。争いの当事者は文徳(もんとく)天皇の第一皇子維喬(これたか)親王と、第四皇子惟仁(これひと)親王。惟喬の母は紀名虎(きのなとら)の娘で、惟仁は藤原良房(ふじわらのよしふさ)娘でした。文徳天皇は聡明な惟喬を愛しましたが、政界の実力者良房の意向を無視できず、生後3ヶ月の惟仁を皇太子にします。のちに源氏の祖の清和天皇となります。一方、『平家物語』名虎の章には、皇位決定のための競馬や、名虎と良房の相撲勝負、両皇子の護持僧による激しい祈祷争いなどが伝えられています。芝居ではこれらの説話を脚色し、惟喬・名虎を悪、惟仁を善と設定しました。
近松門左衛門作の『井筒業平河内通(いづつなりひらかわちがよい)』には惟喬が名虎の骸骨を祀り、招魂する場面があります。『在原系図』の惟喬は皇位への野望を抱きますが、最後はそれを捨てて出家します。

この話と伊勢物語をふまえて
あのカキツバタを、折るシーンと
バイ回しのシーンが何を象徴しているか考える

となると、
バイまわしをやっている二人の子どは・・・・。
ん・・・・あっ!!!

わかった!!
ばいまわしをしている、
二人の子どもは皇位継承争いをしている
惟喬親王と、惟仁親王を表しているのではないか。


これらを踏まえ、ばいまわし(ベーゴマ)のシーンの意味を考える

このバイまわしのシーンは
いつも勝っている(ばいまわしが得意な)百松(惟喬の息子)

たまたま勝てたから大喜びしている、くら吉
の構図だ。

真ん中には床があり
後ろにはカキツバタがある。

文徳天皇は聡明な惟喬を愛しましたが、
政界の実力者藤原良房の意向を無視できず、生後3ヶ月の惟仁を皇太子にします。

『平家物語』では、
皇位決定のための競馬や、名虎と良房の相撲勝負、
両皇子の護持僧による激しい祈祷争いなどが伝えられています。
ここに競馬や相撲をモチーフにして皇位を決めたとある。

『伊勢物語』をふまえると
在原業平とカキツバタがでてくると、藤原(高子)が連想されたでしょう

当時の大衆の皆の感覚とすると、平家物語や伊勢物語はかなりメジャーな内容だったと仮定し、

今回の「倭仮名在原系図」のばいまわしのシーンを
それぞれ象徴とあてはめてみよう

百松・・・・・惟喬親王
くら吉・・・・惟仁親王
ばいまわし・・・・皇位継承を決める勝負
床・・・・・都
カキツバタ・・・・・藤原家(藤原高子)

親にも愛され皇位継承に自信があった百松(兄・惟喬親王)
とばいまわしで勝負して
いきなり皇位継承が手に入った幼いくら吉(弟・惟仁親王)
床の上(京都という舞台)でぶつかり合った二人であったが
百松(のばいごま)は床より落ちる(都落ち)
腹がたった百松は、ふれてはいけないカキツバタを折る(藤原氏を折ろうとする)
そのため、殺されそうになる。

ということだ。

しかも
そのあとのストーリーは
弟は兄の代わりに殺される代役にされそうになる。
これは、弟の惟仁親王(のちの清和天皇)も
禁忌のカキツバタ(ふれてはいけない藤原)の手の内にあることを
示しているのではないか。


歌舞伎を調べていて、
かなり、象徴がたくさんあるような感じがした。
明日にでも専門家に見解を話してみようと思う。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?