見出し画像

幻の真鍮バイ(ベーゴマ考102)

江戸時代末期、
まだバイ貝に鉛や蝋を詰めたものを
使用して子どもたちは「ばいまわし」に興じた。

そして、明治40年頃
日清日露戦争により鋳物の技術は
民間の生活にも変化を与え、金属玩具が子どもたちの身の回りにふえていった

そして、バイ回しは
一番初めに「真鍮」で金属化される

幻と言われる所以

この真鍮バイ。
あることは知っているが
ほんもんはみたことない。

記載は「おもちゃ博物館」の
羽子板•凧•独楽にある。
この本のシリーズ全巻は恩師 聖和大学の中西茂幸研究室にあったものを寄贈していただいた。

玩具研究家の多田さんが京都書院から(おもちゃ博物館)を出版した当時はまぼろしのような物でした。バイ貝を加工した次のものとして出てくる。
この記載にもあるが真鍮は高価なため数も少なく、現在ほとんど残ってない
とある

10年ほど前に大阪のお寺の軒下から20個ほどの真鍮バイが見つかり、それ以降で何点かが世に出ている。

幻というのは、つまり極端に数が少ないのだ

幻の中の至高

その真鍮バイを
井出先生が手に入れた。
…猛者がおる。…ベーゴマ狂や
こんな人私以外におったんや

今から19年前に
「神戸ベーゴマ狂会」を名乗った私。
ベーゴマに関して「アホや」
っていわれるのは
最大の褒め言葉だと思うw

充填

今回井出先生が手に入れたバイは
表面のロウまで残っている。
「赤い」
間違いなく、今まで表に出てきた真鍮のパイの中でもっともクオリティが高い
しかも、真鍮バイになっても、
上部に蝋などを充填して
色を載せていたことがわかる。

表面

表面を見ると、黄金に輝く真鍮がよくわかるが、
鋳物の表面感とは明らかに異なる
砂型でつくる鋳物であるベーゴマでも
日三のベーゴマの表面の姿と
栃木佐野の天明さんのベーゴマの表面の姿は違う。
これは型に使う砂の細かさに影響されるようだ。
今回の真鍮バイは筋が見えることから、砂型ではないのかもしれない。ともすれば石膏型か?

バリ

そして、どこをどう見てもバリがない。
まさかの単独型なのか?
それにしたら湯道はどこだ
どこからながれた??
どう鋳造したのか

これは
世界に20数個存在するであろう
真鍮バイを後数個確認比較したいところだ


他のものと比較

ほかのものと比較できないかと思い検索をかけると、いぜんオークションに出ていたものが現在は海外の詐欺サイトにそのまんまの文面にて掲載されている。比較するにはありがたいが
恐ろしい時代だ。(私が買ったものも詐欺サイトにある)
真鍮バイのあと、同じ型でつくったのか
おんなじ見た目の鉄バイが存在する。
中田幸平氏の日本の遊戯には、これも誰も持ってないと書いてある。
これは愛媛の岡本さんのとこで実物をみている。
ベーゴマは「貝」から「真鍮」になり「鉄」へと変わったのだ。

①以前某サイトにでてた真鍮バイ

https://vhlbgv.estrategiaycontrolsac.com/index.php?main_page=product_info&products_id=29011

②以前某サイトに出ていた鉄バイ

③同じく販売実績のあった鉄バイ

この鉄バイには蒲鉾型のバリが確認できる。
鉄バイの時は葡萄型鋳造といえる。
そして、どれをみても表面に充填されていたものはほとんど残っていないのがわかる。

鉄バイと真鍮バイを比較する

二つを比較して、井出先生がコメントつけてくれた。双方ともほとんど同じであるが
ようは、画像で見る限り真鍮バイのほうが天側(写真で言う下側)がながい。
また

表面の刷り跡が均一方向

よくみると、
真鍮バイは砥石で研いだあとがある。砥石で研ぐのは貝独楽の時と同じである。(一方で鉄バイは研いだ跡が各部位で一致しないため研いでいないと思われる)
これは貝ゴマをつくったものにしかわからないのだが、表面を研ぐことで微妙なバランスの調整を行う。
真鍮バイに貝独楽を変えるにあたり、大きめに作ってバランスを取ろうとしたのではないだろうか。この研ぎ跡と、表面の充填した加工跡を見るに、確実に貝独楽の職人が真鍮バイづくりに関わっていると言える。

そして、完全にバランスが取れたものを元型に変えて、鉄バイを鋳造したと仮定される。

ではなぜ真鍮にしたのか

問題は、なぜ真鍮だったかである。
ベーゴマが1銭で変えたこの時代。
真鍮バイはかなり貴重で大人のものであったそうな。つまり、玩具よりも大人の趣味のコレクションに近い。

融点が低く、加工しやすいのか

「真鍮」は銅60~70%、亜鉛30~40%の合金。身近なところで言うと五円玉は、真鍮。
融点は、含まれる亜鉛の割合によって異なる。一般的には、900度~1200度くらいの範囲で語られることが多い。

鉄の融点が1200くらいなので、金額の高さをカバーするほどの融点の低さとは言えない。

何かの職人に依頼した

事実、この理由が一番可能性が高い。
10年ほど前に大阪のお寺の軒下から20個ほどの真鍮バイが見つかり…
このお寺というのは大阪の博労町にあったそうである。また貝独楽の職人が集中していたのは松屋町周辺であったとされる。
江戸時代から明治にかけて、たしかに禁止されながらも悪童の代名詞のような扱いをされたバイ回しであるが、その博打の賭け要素もあって、少なからず大人の参加があったと思われる。
その中で参加者もしくは身近なところに真鍮製品を扱う職人がいたことがかんがえられるのではないか。

貝ゴマが江戸時代の武家屋敷跡や大阪の何ヶ所から発掘された際に、貝ボタンも一緒に発掘された。つまり、貝製のボタンの職人の季節限定の仕事が貝ゴマ作りだった可能性もあり、専業としていた職人や兼務していた職人もいたであろう。

この当時の真鍮の製品となるものは
•銭(誰でもできるわけではないから可能性小)
•刀などの装飾(目抜き•鍔等)
•神社仏閣製品
•根付け
•香炉

真鍮は銅より多少、安価だったとはいえ、鉄よりも何倍も高価だったわけだ、
儲けを考えて大量に作ったとは考えづらい。
これは遊び人による大人の遊びちゃうか

となると、バイ回しの仲間か
ふだんの仕事の中で
真鍮を溶かして鋳造していた職人が近くにいたと考えると面白い。

明治末期の大阪の職人衆の会話

「おい、真鍮屋。またバイ回しか?いい歳して」
『うるせぇ。日露戦争が終わってもうてから仕事ないんじゃ。バイでも回しとらなやっとられへんわ。』

「しかし、お前下手じゃのう。お前の貝独楽はかけてしもうてるやないか」

『それは作り手のお前が下手なんじゃ!?うちの作った真鍮は薄う伸ばしても絶対欠けないからのぅ。』

「なんやと?貝と金属一緒にすんなや!…欠けへん真鍮か…貝ゴマを真鍮でつくれへんのんか?」

『なめんなよ。いけるわそんなもん』

「ほんま?」
『やるなら本気でやるで、力かせよ』
「おうよ。」

『じゃあ、俺鋳造したるから、バランスお前が取れや。そっちはわからんけの。
さて、型は…せや裏の源助もバイ好きやったなあいつにカタ作らせよか』

『しかし…たっかいバイやのぅ!』
「それがおもろいやんけ」

大阪っぽい。

型は石膏型かもしれない
調整する必要があった
だから背丈が調整用にながい。
そして、その調整するために
てっぺんに凹みをつくり、充填できるようにした。

とかんがえるとしっくりくる。


とりあえず、これは井出先生に
田口さんの真鍮バイと比べて
真鍮バイがどちらも研磨跡があり、背がある程度高かったり個体差があれば可能性がたかくなる。

うちも真鍮バイほしいなぁ!


いいなと思ったら応援しよう!