嬉遊笑覧(ベーゴマ考29)
『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん)は、喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などについて書いた随筆。文政13年 (1830年) 発刊。 各巻上下2章から成る全12巻と付録が1巻。各項目を和漢古今の文献を引用して解説し、体系的に整理した百科事典的な書物で、江戸風俗を知る有益な資料として知られる。
ということで、昭和8年発行の
編を購入してみた。
ベーゴマの歴史を辿る上で手に入れたがそれだけでなく、江戸期の風俗などを知る上でかなり面白い。
さて、最近知った彼を召喚
Lineの「文字起こしばりぐっどくん」が神アプリだ。(若干の修正含む)
〇ぶせうこま
ぶせうこまとはふせうこまなり 【尤双紙】(慶長年中の草子)
めくる物の中たゝけばめぐるふせうこまと有り又【鷹筑波集】
おもひまはせばみなおなし事(といふ前句に)打たゝけばいくつ有てもふせうこま【堀河百首頭狂歌合】
冬の内はふせう気にしも見えつるがうたねとおどりまはる春駒その判に云ふせうこまを
春駒に引まはされたり云々
是今のばいごまなりばいの介殻に鉛をとかし少し許つぎこみぬれば介の尖りたる所に入りて重くなる故まふに勢ひすぐれてしばらくまふ小兒これをまはして勝負をいどむ先薦をしき二人ともにばいをそのうへにまはすに當りあひて勢ひ強きはよはきをはじき出す (【本草啓蒙】にこれをばいげたといふといへり)
【一代男】(五) よい年をしてばいまはし云々又西鶴が
【大鑑】に是も秋の末より螺つくはやらし云々あり(つくといふことツクリの名に似たり古名の遺れるにや) 冬の戯と見ゆ
【帝京景物略】に楊柳兒活抽陀螺とあると時候異なり
○ばいごま
陀螺と漢土に云も螺をまはしたるにこそ今のばいごまは木にて作れり寛延寶暦の頃まで介殻にてありしと見えてその頃の繪に見ゆまはすは紐ははかたごまの緒のごとしこれにてはこまゝひ終らむとする時打たゝくに不便なるべし今は作り革を細く截て短き竹のさきにつなぎたり
要約すると
ぶしょうごまの項に
今のばいごまなりとの記載があり、
当時のバイごまの作り方が細かに載っている
ばいごまの項に
昔は貝殻で作ったが今は木製となっている
となっている
……。
うん。いろいろ不可思議
ほかの文献をみて考察してみる
私としては、
ムチごま(ぶち)=ぶしょうごま=ばいごま
と混ざって認識された経緯があるのでは無いかと
考える。
まず、
中国では『陀螺(だら)』とよび、
これはぶちゴマのように、鞭でたたいてまわすものだ。
それが高麗(朝鮮)を通じて
日本に入ってくる訳だが
こままわしで、調べると
独楽+打つ、回す
という意味が出てくる。
ということは
日本に入ってきた時
打つと回すは
同じ音として、誤認されやすかったのではないか
追記・2023.3.16
文献を読み進めると、ほかの遊びにその真意が見える。
穴打ち(穴一)という遊びがある。今のビー玉遊びの源流であるが、
その元には、銭打とよばれる
お金を順に投げて、そのお金に当てれば貰えるという博打性が高い遊びである。
この流れで、『めんうち』は泥メンコをなげてあそぶものをさす。
これらから考えると『打つ』という言葉は
いまの「たたく」というイメージとともに、
「なげる」「まわす」という意味を合わせて持っていたものと考える。
そのため、
形として
形状が似ていた
『ぶちごま』と『ばいごま』
をどちらも『ぶしょうごま』と読んだ可能性がある。
なぜ、混ざったかは
さだかではないが
鷹筑羽集にでてくるぶしょうごまは
『たたけばまわる』とあるから
ムチごまのイメージ
その他のものは、
ばいごまを『ぶしょうごま』といったり
ムチごまのことをそうよんだり
錯綜している気がする。
もしくは、
江戸初期の文献が
中国の陀螺を
ムチごまとバイごまを混同して
『ぶしょうごま』と訳したので
それから、その文献を見た人が引っ張られた可能性がありえる。
昭和初期の文献をみると、
一部の地方では、今もベーゴマを木製な場所があると紹介しているが、
これは
小さなぶちごまのことであり
ベーゴマの流れとは別物と考えた方がよい。
そう考えると
やはり
独楽自体は奈良時代や平安時代からといえるが
ベーゴマは江戸期と考えることが妥当であろう。
最後に独楽をさす
『陀螺』であるが
地元富山や、北陸、静岡などでは
アホとかバカのかわりに『だら』と呼ぶ。
一説には『たらず』が訛って『だら』になった
というが、
ぶしょうごまが
叩かないとまわらない不精もんから
来ているとした場合、
この『だら』という語源も
叩かないとまわらない独楽から来ている可能性はないのだろうか。
だめだ……これは言語学の分野に委ねよう。
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