文献からみるベーゴマ史(ベーゴマ考26)
べーごまっていつからあるんですか?
ってよく聞かれるが
「平安に京都からと言われてます」と答えてきた。
これは、日三鋳造のホームページに書かれていることであるが、
その根拠となる文献はなんだろう……
ほんまに平安なのか?
とおもったので探してみた。
コマのルーツ
まず、「ぶちごま」や「ぶしょうごま」といった叩きごまは全世界で独自に発生している。
これがこまのルーツである。
日本における独楽の歴史は
唐時代から高麗(こま)を経て伝わったといわれた。
当初、奈良時代には朝廷の余興や、儀式的なものから、貴族たちの遊戯をへて、こどもたちにおりていったと考えられていたが
2020年大津で日本最古の独楽が見つかった。
これを踏まえると、遣隋使のころに伝わったと考えることができるかもしれない。
しかし綺麗な形のぶちごまである。
本家筋の中国では
「空鐘」「陀螺」の文字を当てている。
伝来の経緯を踏まえ
『独楽(こま)』と言う読みは日本語訳であると、江戸時代の儒者、伊東長胤の「名物六帖」にでてくる。
ほんまに、
なんで独りで楽しむとあてたんだ……。
938年 倭名類聚抄
日本で「コマ」という名が残っている最も古い文献は平安の中期、931~938年にかけて編纂された和漢辞典である、
『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』
ここに
「獨楽 和名古末都久利 有孔者也」
とかかれている。「あながあるもの」と書かれているので、側面に穴があり音が鳴る唐独楽の一種ともみれる
和名のところに、
こまつくり、こまつぶりと読むとある。
1086年頃 大鏡
『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期の白河院政期に成立したとみられる紀伝体の歴史物語である
白河上皇 天皇家に権力を取り戻すのは1086年なのでこのころの作
ここには
幼い頃の一條天皇が
音をたててまわる独楽に興味を持ったこと
紫の紐でまわしたことが書かれている。
こまつぶりの「つぶ」は「螺」のことで、巻貝を指す。
独楽ははじめ貝殻を用い、後には木製となったとの見方もある。
このあたりが
ベーゴマ起源平安説の根拠といったところかと思う。京都というのは、貴族や朝廷からはじまったからなのかもしれない。
仮説として
ぶちごまの形状は、渦をまく巻貝に似ているため、それを回そうとした可能性はある。
木製なものが投げ独楽に進化したとは
別方向で
ベーゴマの元となった貝をつかった独楽も生まれてきたと考えることはできる
独楽ではなく
こまつぶりと言ったのは
「かたつむり」のつむりと同じと考えると「螺」との意味なんだろな
独楽には昔から木製と貝製があった
と考えると、「こまつぶり」にも合点がいく
個人的には
こまの形状が「巻貝(螺)」に似てたから「つぶり」と言った可能性もあるし
小さい独楽にたいし、つぶりをあてたきもする。
1180年前後 梁塵秘抄
『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は、平安時代末期に編まれた歌謡集。今様歌謡の集成。編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作。
平安末期の後白河法皇選「梁塵秘抄」に
……こどもが、自分のこまに向かって、祭りに行こうよというと、独楽は馬が多いから踏まれそうでいやだ……という内容の童話的な話が出てくる。
これは
子どもの中に独楽が広がっていることを表す言葉でもあるが、
この文面から考えると
馬に踏まれて壊れる独楽は
小さな貝独楽とイメージしやすいのではないかともいえる。
1603 日葡辞書(日葡辞典)
(にっぽじしょ、葡: Vocabulário da Língua do Japão)は、キリシタン版の一種で、日本語をポルトガル語で解説した辞典である。イエズス会によって、1603年から1604年にかけて長崎で発行された。ローマ字表記の日本語見出しに対する語釈部分は全てポルトガル語で記述され、約3万2000語を収録している。
17世紀初頭の慶長8年に本編が出版された。
この中に「バイ」について
「殻をコマとして使う」と記されている。
つまり、ポルトガル語に変換されるほど
関ヶ原明けくらいには
バイごまはメジャーということである。
1633 尤の草紙(もっとものそうし)
1633年 寛永10年 尤の草紙 という書物
に「ぶしょうごま」として登場する
1676『日次記事』
「ひなみきじ」延宝4年(1676) の成立で、 京都を中心にした年中行事の解説書である。 9月の項には「此月、児童小石を以て海羸 (バイ)の殻を穿ち、 鉛を鎔かして殻の内へ入れ、 或は洲濱飴を殻の内に充たし、其の力を助け、各緒を以て海を纏い、 勢に乗じて台の内に投入れ、其の上に運転令しむ。其の力強き者、弱き者を於盆の外に出す。 互に勝負を争う、 是を海羸撃と称す。 蓆の両端を台と為す、是を盆と曰う」とあり 、後に曲亭馬琴の 『俳諧歳時記栞草』にも引用されている。
1678年 鷹筑羽集
1678年発行の鷹筑羽集という書物
にも「ぶしょうごま」が登場
なぜ、
「ぶしょうごま」=「ばいまわし」「ばい」
なのかを読み取ろうとしたが、130ページある
旧字体を読めなかった。
仮名文字しかない文献のなかに
この異なる玩具が=になっている理由があるはずだ
1682 好色一代男
その後、井原西鶴の一代男に
大人のくせにばい回しに熱狂しているという内容がでてくる。
この貝独楽、巻貝の螺(にし)の貝殻を紐で巻いてまわしたので貝(ばい)独楽という名がついた。ばいまわし、バイゲタ、バイツクなどとよばれた。
1712 和漢三才図会
江戸時代の正徳2年(1712)発行の
和漢三才図会(寺島良安)に、
イラストとともに
この遊びがいつ始まったかわからないが、ばいは海中に生息する小螺で、この貝殻の頭尖部を打って平均にし、細縄で巻き回して遊ぶ。田螺(たにし)に似ていて、紀州熊野産が最も大きい……とある。
1739 絵本御伽草子
次に、
和漢三才図会から18年後の1739年にかかれた絵本御伽品鏡では
大阪を中心に当時の上方の名物風俗が描かれている。
右側に
貝まわしとして
たらいの上にござをひいた床の上で2人の子どもが貝独楽を回して対戦している。
後ろには海螺貝を削って加工している商人の姿も描かれている。
このことから、この時代には既に商品化されていることが分かる。
1830 嬉遊笑覧
1830年刊の「嬉遊笑覧」という本には
ばいの貝殻に鉛を流し込み、先を重くして作るとその当時、独楽を安定させるために鉛などを底に入れるようになったことを伝えている。
1853 守貞漫稿
1853年刊の「守貞漫稿」にも、
砂糖などの空樽の蓋を除き、その上にござをたたみ凹となし、2人でなげいれるとある。
となると、江戸時代の初めの頃には
ぶしょうごま=ばいまわし の記載があったが
後半の資料には
鞭で叩くことを連想させる表記はない。
真相は闇の中
その一方、
兵庫県教育委員会が編纂した
遊び図鑑では鞭で叩くようなベーゴマの絵が
登場する。
このイラストが誰かの経験を元にかかれたのか
ベーゴマのイメージが間違って解釈されたのかは不明である。
誰か、ベーゴマを叩きごまのようにまわしたひとがいたら教えて欲しい。
当時 京都や上方では
貝独楽の安物は砂を詰め、
上物は鉛を詰めて表面を色蝋で飾った。
(※後日作り方をまとめます。)
最上級品になると
色蝋で独楽の切り口に鯛や桜花などの図柄を描いた極彩色のものがあった。
一方、関東では何も詰めていない「空バイ」が主流であった。
明治になってもブームは続き
京阪地方
どこの路上、空き地にも勝負に熱中するこどもの姿がみられた。
おもちゃ屋や縁日の露店で美しい色彩の貝独楽が並び、いちばん高価な貝は座布団をひいて高段に鎮座した。
貝独楽が最も流行したときには、京阪神の貝独楽屋が京都の四条河原にあつまって大競技大会を催したらしい。
1903『百物叢談』
明治時代の本に次のようにある。
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貝独楽(ばいごま)
日並記事といふ書に毎年秋冷の節より冬へかけて小児貝独楽を舞はす是れを貝舞(ばいまは)しと称す。
すなわち童子の戯れになす物にて海螺(ばい)の殻に糸を巻き席(ござ)の上にて廻し打出したるを勝(かち)とす。
今は備前天草より出づるを上品とす。その始めは紀州熊野より出づるといふ。
また同地の海螺(ばい)は厚くして堅きにより小児等石もて海螺のからを穿(うが)ち鉛をとろかして殻の内に入れ、その上を州浜(すはま)の飴(あめ)にて塗り、糸もて舞(まは)し勝負をなす。
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『百物叢談』(明治36年)
厚く硬いばい貝のなかに溶かした鉛を入れる。
表面に州浜の飴を塗るのは、糸を巻く時に滑り止めになるのだろうか。(州浜というのは豆飴の一種らしい)
前述の『百物叢談』からその紹介文を引用しよう。
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三才絵図にも田夫野人の弄ぶものにて即ち海螺(ばい)の空(ぬけ)がらを砥ぎ、その頭の尖(とがり)を平らかにし尻の尖をも擦り丸めて糸にて巻き席盆(ござぼん)の中に舞(まは)し勝負をなす。
その席本(ござぼん)の中へ先づ入る者を伊加といふ。後(おく)れ入る者を乃宇(のう)という。
もし撃合(うちあは)せて同じく席の外へ出づるを張(はり)といふ。張る時は伊加を勝ちとす。
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ばい貝の殻を削ったものをコマにして勝負する。
最初に回し入れたものが「伊加」、後から回し入れたものが「乃宇」、先に外に出た方が負け。同時に外に出た場合は「伊加」の勝ちとする。
江戸時代の「海螺弄(ばいまはし)」は大人の賭け事遊びに近い感じ。
続きを読もう
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されども何れの時代より始まるを知らずとあり、もっとも紀事にもその始めを言はざれば久しき昔より此の戯れありしを知るべし。
その後色もて染めたる蝋をば海螺(ばい)の内に入れけるもその始めは飴を煮て入れし事とは知られたり。
今は伊加乃宇といふ言葉はなくその張りたる時は勝負なし。これ等の戯れにも古今おのずから沿革あり。
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『百物叢談』(明治36年)
昭和7年 風俗野史(6巻)
6巻は1932年(昭和7年)に発行
1923年9月1日
今から100年前に関東大震災が発生。
失われたたくさんの人命や被災した建物とともに文化が消えたということは
文化や伝統が忘れ去られないように
伊藤晴雨はこの挿絵を昭和になってから描いたのだ。
昭和15年 上方郷土研究会編「上方
日露戦争後に
真鍮バイがまず出現し、
それに続いて明治40年頃と鋳物の「かねばい」
とよばれる鉄貝が登場。
美しく彩色された蝋バイご工芸品化したが
かねばいは実戦的であったため、またたくまに
広がっていった。
このころ、色々異なった形、お多福、ヒョットコなどができましたが
雅さにかけるものであったが、全部鉄なので強い。一方でガラスをわったり、怪我させたり、で家庭から敬遠され、そのうち廃滅。今では玩具の骨董となった。
(昭和15年 上方郷土研究会編「上方」より)
このことから、関西では
鉄製のバイゴマがでてすぐに
「メンバイ」が出来たが、家庭に敬遠され急激に下火になった事がわかる。
関西の鉄貝は
これまでの蝋貝型をそっくり鋳物型にしたもの
であったが、
関東では空バイに近く、おチョコの様な「おちょこべー」ができた。
ここまでみて
今日1日調べて感じること。
ベーゴマが平安時代から
というのは
確証は無い。いまんとこ
そのころには独楽はあった。
だからバイゴマのもとの
貝独楽もしくは、そのもとになるモノが
あったかもしれないし
なかったかもしれないw
そもそも
初代ベーゴマってwww
貝なのか?
木なのかw
確実にあったといえるのは
江戸時代
けどわくわくするから
いつか発掘されたりすると楽しいなぁ
参考文献
1712年 和漢三才図会 16・17巻 芸能 喜戯
1739年 絵本御伽品鏡 3巻 長谷川光信
昭和18年発行 日本の遊戯 小高吉三郎著
昭和47年発行 日本のおもちゃ遊び 斎藤良輔著
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