幻の木型①(ベーゴマ考88)
郷土資料館の井出先生が
超絶羨ましいことをいいだした。
「木型職人さんにおあいできることになりました!」
なにー!!
まぢか。こんなにも
関東が羨ましいと思ったことはない。
さすが鋳物の町だ
幻の型
かつて、はじめて日三鋳造に訪れた際に
辻井社長に「木型って残ってないですか?」
と聞いたことがある。
その時に「木型なんて残ってない。」
みんな燃やしてしまうらしい。
その理由は…
「いらないから」
つまり一度元型の金型にしてしまえば
不要になるということだ。
よって、基本的にベーゴマの元々型である
「木型」は世の中に存在し難いのだ。
国宝級
ところが
…あった。
木型職人さんのところにあった。
どうも新角六の時に作り直した時のもので、
本人もいつのことかわからないらしい。
なんで残ってるのかわからないとのこと
新角六のときということなのだが
日三の辻井社長と
中島名人の話から
製造された日時が判明
中島さんが日三鋳造にきはったのが16年前
その後少しして、
毎回型を作り直す手間を考え
のっぺらをベースに作り直し
その上にデザインを乗っけるように変更した。
その時のものと思われるので
2010年ごろがただしい。
確かに2006年に
NHKの「日本夏紀行」でおおさか大正の
火の来間が取り上げられた時
すでに塗り絵ベーはあった。
その数年後、日三の型が変わったときがあった。
一回り大きくなって、重量も増したので、
従来の角六ではなかなか勝てなくなったので
はっきり覚えているのだ。
それぞれの間の薄い連結部分もよくわかる。
こちらが、上のイラスト側
のっぺらの形につくり、この上にそれぞれのイラストの型をのせるようだ。
これを原型にして、別の木型職人に発注して、樹脂型をつくるそうです。それを8個並べて、日三で持っている、のっぺらの木型に貼り付けて鋳造する。
樹脂型
先ほどの木型を複製して現在は樹脂でつくる
こちらが樹脂でできてます。
ぱっと見わからんw
つなぎ目がよーくわかる!
職人さんも自分で作ってるのに
「これ、よく隣のベーゴマに湯が回るよね(笑)」って言うてたらしい。
※ここでいう「よくまわる」というのは
関西的な、「なんで流れるか意味わからへん」
ではなく
「とてもよく流れる」と言う意味のようだ。
日本語は難しい。
関西の型の写真見せてみる
次に、井出先生は
関西の金型の画像を見せて聞いてみてくれた。
すると
「これは面倒くさいなぁ」
「これじゃ、型をはずすの、大変でしょ?」
といわれたそうだ。
このセリフは
徳島の鋳造業者にも言われたセリフ。
型を外すのが大変で、ちょっとしたことで上下がズレてしまうようだ。
「昔はズレてるものが多くてさ。ズレたベーゴマって、職人からすると恥ずかしいから、溶かしちゃうんだ
「バリが出ているのは恥ずかしいし、削ってるのも跡を見られたら恥ずかしい。だから、世の中に出回らなかった、って聞いた事あるよ」
と中島さんも同じような話が出ている
実は集めてたりする。恥ずかしいやつw
上は型ズレ
こちらは「湯」がまわってない。
本来は出回らない子たちだと思う。
型の誤差の話
木型は擦り減るから、何度も使わない
これねー、図面ないんだよ。
って教えてくれたのが
裏側の渦巻きの部分
よく見ると誤差がある。
新角六がすべて
この3つのベースからはじまったと考えると感慨深い。
見比べると、それぞれどの型からできているかがわかる。
この溝は適当につけてるんだそうで、
「こんなの図面なんてもらっても困るし、こっちもさっと作るから、精密に同じにならない。表側だって、そうだよ。同じの何個も作ってたら、少しずつ違っちゃうね。」
その話をきいて思い出すのが
これらの
川上、大下、皆川である
これらもよく見ると微妙に少しづつ違う。
と考えると3連のように型をつくり
それぞれの誤差があると考えられる
金型の成り立ち
改めて、現在の金型をみてみよう。
普通に考えて、全ての木型を作るのは非現実的だ
一つの型をつくれば
複製を作ることができる
複製を作るほうが現実的だ。
全部を1個1個掘るのか!?と思っていたが
複製したものを並べて型を作ると考えられる。
そうかんがえると
型の端をじっと見るとみんな同じ溝のようなきがする。
初めの型の作り方は
①木で木製のベーゴマ型を作成する
②その木型を樹脂で複製
③複製した樹脂を並べて凸部と凹部の金型を作成
(もともとは樹脂ではなく石膏だったか)
ここからは
「砂型鋳造」と言う技術となる
④ジャケットと呼ばれる金属の枠に金型を取り付けて砂をつめて砂型を作ります。
※これはベーゴマに特化した方法ではなく、川口で小型の鋳物製品をつくるときに行うオーソドックスな製造方法です。
つまり、川口の鋳物の製造方法に、ベーゴマの鋳造もマッチさせた、と言えると思います。
さらに、この時に使われるジャケットやその他の道具、砂型の湯口の位置や大きさ、それに合わせた湯汲み(湯を注ぐ、ひしゃく状の道具)、そのあとの作業工程も含めて一切合切が関東の鋳造の歴史に支えられたものです。
④ジャケットと呼ばれる枠に金型をはさんで
プレート金型に離型剤(粉)をつける
⑤枠にプレート状の金型をセットして砂を充填
※反対側も同じ
⑥金型を外す
⑦「湯口」注ぎ口をつくる
⑧溶けた鉄を流し入れる
⑨砂を崩して完成品を出す
いつからプレート型になったか
ベーゴマが、はじめて貝の形から
金属である真鍮ベイに代ったのが明治のころ
真鍮バイは
限りなく貝独楽の形に近いので初期のものの型は
貝独楽そのものだったのかもしれない。
その後、
鋳物のバイがでてきた。
面バイや初期の関西バイには
時にバリが確認できない。
これは
初期の面バイなどは
元型の金型を一つ作って
それをベースに毎回ひとつづつ作っていたのだろうか。
次にこれを見てほしい
これは
関東の刻みが型にある「おちょこベー」
ここのバリの跡をみると
かなり細いのがわかる。
しかも、反対側にバリを確認することはできない。
つまり、関東でもはじめのころは
関西のおなじ葡萄型の鋳造だった可能性がある。
しかし一方で丸型のときは
バリを細くしないと丸にならないため、
現在の型の鋳造の並びはみてみたいところである。
総合して考えると
昔は関西も、関東も、徳島も
葡萄型の金型だった
そのため、たまにズレたり
不具合も大きかった。
その後
角六とかがでてきたから
辺と辺をくっつける
いまの並びの方法が考案され、
プレート型の金型に変化していった
のかもしれない。
最後に
「普通は残しておかないんだけどなー。なんで残ってたのかなー?」
という木型職人の人の言葉に
井出先生は
「えー!?うちで展示させていただきたいです!お借りできますか?」
というたら
「・・・・いいよ。持って行って。返さなくていいから。」
ありがたい。
これは郷土資料館にあるべきものだ。
そして、
今は3Dプリンタなどの技術があるから
木型職人はこんごいなくなる
確実に失われる技術である
今回の発見は
井出先生の行動力と
偶然がかさなってつながっている。
ないはずのものがみつかったことで見えてきたことは大きい。
いつか実物みにいこう!