見出し画像

「福来屋菓子店の話」


母方の実家は駄菓子屋さんだった。
元魚津城のすぐそこ
「福来屋菓子店」という
富山では
30cm未満のブリ「ハマチ」のことを
「フクラギ」という。
名前は大漁で港がにぎわい「福が来る魚」と呼ばれたことが由来とされており、
漢字では「福来魚」と書く。

この富山弁の「福来魚」由来で
屋号としたのだろうか
新宿と言う地名なので中心地だったんだろう。
母親の幼い頃の写真はぺこちゃんと写っていたり
キャラメルなどの広告と一緒に写っている。

写真には
「魚津名産 福来餅」とかいてある。
福来餅というお餅を作って売っていたらしい。

母親はナーンも知らんかったが
おじが「福来餅」のことを覚えていた。

紅白の平べったいお餅で
重曹を材料に含んでいたので
焼いた時にビヨーンとのびて、
福が伸びる、
福が続くとかけてかなり売れたようで
東京の物産展にも出したことがあるそうな。

いつかこれは
再現せなあかんな

きっともっともっと薄い


爺さんは二代目で、
曾祖父さんが初代だったようだ。

爺さんは、当時としてはかなり
洒落た人で、不二越の楽団にはいって
ティンパニや、トランペットをひいていた。
そのまんま
戦時中にも『慰安部隊』に所属して
いろんな部隊のとこにいって、演奏していたらしい。シベリアで捕虜になったが、楽器を弾けたので重宝がられたというてた。
戦争から戻ってきて菓子店を継いだ。

年取って痴呆がはいったじいさんが
デイケアでお餅つきがあった時

餅をわたしたら
おそるべき速さで
手際よく餅をまるめだしたそうだ。
爺さんは餅を与えると覚醒する。
職人だったんだろなぁ。

昔の写真には猫瓶もいっぱい
残ってたら可愛いもんが多いなぁ。

駄菓子屋がいい

駄菓子屋は子どもたちにとって
手持ちの数100円をどのように有意義に使うかの経済の学びの場であり
おばちゃんを通じてコミュニケーションを学ぶ場だったと思う。

こどもたちは
小銭を握りしめて
放課後『駄菓子屋』に走ったのだ。

しかし、今は
消費税があり、100円をどのようにつかったら
有意義に使えるか
という放課後のお腹に直結した学びは
難しい。

最近は
お小遣いをPayPayで
という家庭もあるそうで
そうなると
「おつり」という概念がイメージできない子どももでるだろう。
駄菓子屋でこどもが
「PayPayで!」というのも、なんだか寂しい。
便利になる一方で
こどものころだからこそ
アナログで経験して欲しいもんもある。

できればいつか駄菓子屋のおっちゃんしたい。
3代目福来屋である。

駄菓子屋にくる子どもたちと遊びながら
独楽したり、
竹とんぼしたり、
べーゴマしたりしたいなぁ


小銭をにぎりしめて小さい頃に行った駄菓子屋

当てモンしたり、
くじしたり
昔はちょいと危険なもんもいっぱい売ってた
クラッカーも、
銀玉鉄砲も、
火薬つけて投げて破裂させるおもちゃもあった。

糸引アメにしても、
当てもんにしても、
型抜きにしても
子どもの遊びのルーツは大人の模倣にある。
遊びに関して「賭事」の要素は大きい
べーゴマもべったんもビー玉も賭事
ガチャンコ?(ガチャガチャ)だって何が出るかわからん賭けの要素があるから面白い
UFOキャッチャーもおんなじ
負けたら真ん中のトイレに入るハンカチ落としや
負けたら罰ゲームでシッペかデコピンか馬場チョップな
ってのも賭けの要素かもしれない。
その要素があるからおもろい。

それら模倣の遊びの中で
上手くいくことも、失敗することも学べばいい。
そういう場所をがもっともっと残って欲しいなぁ
薄っぺらな1錢焼きでも焼いて
お釣り渡す時に
「はい10万円」
って言いたいなぁ

#駄菓子屋玩具
#3代目福来屋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?