日次紀事(1676)から見るベーゴマ(ベーゴマ考65)
2012年ベーゴマの歴史にとって画期的な発見があった。
というより、今まで見えていなかった玩具としてのベーゴマの歴史が
再発見されたのだ。大阪の武家屋敷からのバイゴマの発見である。
その調査報告を見ていて、
何度も読んでるはずなのに、今まで読んだことがなかったベーゴマの文献のことが書いてあった。
不覚にも気づいていない。
というわけで、今回は
日次紀事 (ひなみきじ)
まず・・・読めない「ニチジキジ」ではなかった。
「ひなみ」を辞書で引くと、以下のような説明
1. 日のよしあし。その日の吉凶。日柄(ひがら)。「―がよい」
2. 毎日行うこと。日ごと。
3. 日取り。日付。
この本は、江戸前期の京都を中心とする朝野公私の年中行事解説書。黒川道祐編。1676年(延宝4)林鵞峰序。中国明朝の《月令広義》にならって編集されているが,民間の習俗行事を積極的に採録したのが特徴。京都を中心とした公俗の年中行事の解説。一月を一巻とし、正月から各月ごとに,毎月1日から月末まで日をおい,節序,神事,公事,人事,忌日,法会,開帳の項を立て,それぞれ行事の由来や現況を解説している。しかし,神事や儀式には非公開をたてまえとするものもあり,出版後まもなく絶板の処分をうけた。従前の類書が、五節句など中国風の故事来歴を説いたのに対し、「洛中洛外貴賤歳時之俗事」を当世の風俗・人情を加味し記述しているのは、本書の大きな特色である。なお「日次紀事」は出版後まもなく禁書となり、再刊時には上賀茂神社以下諸社の項に改変が加えられていた。
つまり毎月ごとの、京都近隣の神社仏閣の祭礼などのことを詳細にまとめた書籍で、
○月○日天王寺で、〇〇っていう祭礼があります。こんな感じでのとか
豊臣秀吉公の祭礼がありますとか石田三成公の祭礼がありますとか
ずーーーーーーーーーーーーっとかいてある。
で毎月ごとの最後に、その月の風俗的なことが書いてあるのだな
バイゴマ(ベーゴマ)の季節
バイゴマのことが明記してあるのは、9月の項で、月の最後の最後のところに書いてある。(10月のページの前)
検索すると、現在の漁獲高が最も高いのは山口県であるが、これは白バイであり、ベーゴマで使用する黒バイではない。
私は富山出身なので、バイ貝といえば白バイで、一番初めにバイ貝の加工を試みたのは白バイだった。
しかし、白バイは貝殻が柔らかく、モロいため、ベーゴマの加工には向かない。実際にやってみたが、割れてしまった。形ができたとしても対戦するときに割れてしまうだろう。
江戸時代に、バイゴマの材料として最も良いとされたのは
三重県産である。今も東京での取り扱いを見ると、二位にランクインする。こちらのバイ貝は黒バイである。
この図を見るに、黒バイが取れる旬は秋ということになり
気候の若干の変動はあれど、江戸時代も
秋になると京都周辺の市場にも三重からの黒バイが並び、その空殻を使って
子どもたちが加工したことが伺える。
以前に俳句からベーゴマについて考えた時に述べたが
「ばいまわし」は秋の季語である。
黒バイの旬に合わせて、その捨てる殻の廃材工作ともいうべき
ベーゴマが毎年秋に盛んになったゆえであろう。
国立国会図書館デジタルコレクション万歳
さて、本文を見てみよう。
本当にデジタルコレクションはありがたい。
ネット上でいくつか、日次紀事を見ることができるが、国立図書館のものが・・・・
字が綺麗なので、こちらを見ていきたい。
(当時は複写が基本だからですね)
国会図書館の「日次紀事」は9月と10月で1冊になっている。
ではベーゴマの記載箇所にワープ
2ページに渡っているので、つなげてみてみよう。
此月兒童以小石穿海蠃殼鎔鉛而入殼内或洲濱飴
充殼內助其力各以諸纏海嬴乘勢投入臺内合運轉其上其力强 (次項) 者出弱者於盆外互爭勝負是称海撃巻席之兩端為臺是曰金
本文に書いてある文を訳すと、
此月、児童小石を以て海羸 (バイ)の殻を穿ち、鉛を鎔かして殻の内へ入れ、 或は洲濱飴を殻の内に充たし、其の力を助け、各緒を以て海を纏い、 勢に乗じて台の内に投入れ、其の上に運転令しむ。
其の力強き者、 弱き者を於盆の外に出す。 互に勝負を争う、 是を海羸撃と称す。 蓆の両端を台と為す、是を盆と曰う
となる。
子どもが自ら作っていたバイゴマ
ここで注目するべきは
「児童が小石を持って、バイの殻を穿ち」
井原西鶴の好色五人男にも、この歳にもなってバイ回しにうつつをぬかしとあるように、バイ回しも大人の賭け事の遊戯であったという説もあるが、やはり主役はこどもであったということであろう。
そして、松下名人の、話にでてきたように
もともとは竹蜻蛉のような
制作遊びと組み合わさったものであり、
子ども自身が自ら工夫し、加工した遊びであったとおもわれる。
州濱飴
興味深い点がある。
「バイ貝の殻を加工したものに州濱飴をつめてまわした」との記述だ。
この「すはまあめ」を調べてみた
このサイトによると
浅煎りの大豆粉を砂糖と水飴で練り上げたお菓子「豆飴」。
それを平安時代からのおめでたい紋様、浜辺の入り込みを意匠化した州浜形に作ったことから、「すはま」と呼ばれるようになりました。
かつて京都では、洲濱だけを作る専門店が何軒もあったそうです。
うん、これだな。
つまり、「飴」といいながらも
練り菓子に近いものであろう。
なんかきな粉のねったねじれたお菓子は食べたことあるけどそんな感じやろか。
この時代甘味は高級だと思うのだが、
子どもたちの玩具に使用できるほど
流通していたということかな。
鉛もどうやって手に入れていたのか
子どもたちが身近な材料を駆使して遊んでいたことがわかる。
感覚としてはきな粉をねったものと考えると、
伸ばして曲げると、ヒビが少し入る程度
硬めの粘土的な感じかしら。
重量感が増すのか、実際に詰めてみなわからん
というわけで
そのうちに連絡して、購入し、
バイゴマに詰めてまわしてみよう。
床=「盆」
また「盆」という言葉が出てくる。これは現代の「床」に近い意味合いとおもわれ、この「日次紀事」は京都付近のことを書いたものであるから、京都付近では、「盆」と呼ばれていたことになる。イメージが丸い形に引っ張られるが、丸床は戦後の近代における形と言えることと「蓆」はムシロのことなので、藁を編んでつくった四角のムシロなどの上で回していたことがわかる。(土台に箱状のものを使ってたかどうかは不明)
まとめ
今回、資料の見直しとともに
確認することができた、「日次紀事」
ほんの数行のばいまわしについての記載ではあるが、
・当時の子どもにとってベーゴマが身近であったこと
・京都で盛んに行われていたこと
・子ども自身が加工していたこと
・食べ物である「州浜飴」を使って充填していたこと
など多様な時代の情景が見える。
1676年ということは4代家綱の時代
江戸時代と一言で言っても長いので
大政奉還が1868
それまで不精ごま表記だったものが(本当にこれがベーゴマなのかは不明)
バイゴマとして正式に、1603年に日葡辞典に出てくるので
江戸初期にはすでに確実に原型があったことがわかる。
平安という証拠は見つからないが
京都付近でという今のベーゴマの起源説は
この辺りから出ているのかもしれない。
どうすれば、平安起源を打破できるのか
誰か共同研究してくれないかなぁ。
参考
黒川道祐 著『日次紀事』9-10月,[珍書同好会],大正5序. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1170282 (参照 2024-06-12)
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