第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その2
ⅱ)幕府の成立
頼朝は東海道の要衝である鎌倉で、新政権の樹立に努めた。頼朝は富士川の戦いの後侍所を設け、別当には和田義盛を任命し、御家人の統率にあたらせた。1184(元暦元)年には公文所と問注所を設け、公文所はさらに整備され政所となった。政所の長官には、朝廷の下級官吏であった大江広元が任じられ、一般政務を取り仕切った。また公文所の長官である執事には同じく下級官吏の三善康信が任命され、裁判などを担当した。
頼朝は関東の荘園や公領の支配を広げていき、御家人たちの所領支配を保障していった。1183(寿永2)年には後白河法皇から寿永二年十月宣旨を手に入れ、東海道、東山道諸国の公的な支配権を獲得した。1185(文治元)年、後白河法皇が義経に頼朝追討の命令を下すと、頼朝は京に軍勢を送って抗議し、追討の命令を撤回させ、さらに諸国に守護を、荘園や公領に地頭を任命する権利、田1段あたり5升の兵粮米を徴収する権利、そして諸国の在庁官人を支配する権利を得た。こうして頼朝の支配権は全国へと広まり、ここに鎌倉幕府が成立した。
守護は各国に一人ずつ置かれ、主に有力御家人が任命された。彼らの任務は大犯三カ条と呼ばれ、その内容は、大番催促、謀叛人の逮捕、殺害人の逮捕の三つであった。守護はこれらの権限を口実に任国内で警察権を行使し、戦時には御家人を統率して戦闘に参加した。また、守護は在庁官人を支配することで、地方行政への関与を強めていった。当時の地方行政では現地の有力者である在庁官人が中心となっていた。彼らの多くは武士化し、幕府の御家人となるものも現れた。そこで守護は在庁官人への命令権を行使し、国衙の支配を強めていった。結果、国衙の機能は、守護のいる守護所へと移されていった。
地頭は各地の荘園や公領に置かれ、御家人が任命された。彼らの任務は、年貢の徴収や治安維持などであった。荘園領主などは自身の在地への影響力低下を恐れてこれに反発したが、最終的に地頭が置かれる範囲は全国に及ぶようになっていった。
頼朝は京都には京都守護を置き、京都の警備と現地の御家人の統率を担当させた。また九州には鎮西奉行を、奥州には奥州総奉行を置き、地方の御家人を統率させた。1190(建久元)年に頼朝は上京して右近衛大将に任じられ、1192(建久3)年には、征夷大将軍に任命された。こうして鎌倉幕府が名実ともに誕生した。