第2回 北条氏の台頭と執権政治 その1
頼朝は1199(正治元)年の正月に53歳で死去した。落馬が原因とされているが詳しい死因はわかっていない。この後を継いだのは、頼朝の嫡子であった源頼家であった。頼家は頼朝同様、将軍専制政治を展開しようとした。これに反発したのは、頼朝以来の御家人たちである。彼らは若輩の頼家が強大な権力を握ることを歓迎しなかった。頼朝の死後3ヶ月後、北条時政らは頼家から訴訟の判決権を取り上げて頼家の専制を抑え、御家人の代表者13人からなる13人の合議制を開始した。
この中心となったのは頼朝の妻、政子の一族である北条氏であった。北条氏はこの後急速に力をつけていった。1199(正治元)年、頼家の信任が厚かった梶原景時が鎌倉を追放され、翌年に一族が滅ぼされた。これは時政の命令によるものとされている。1203(建仁3)年に頼家が重病を患うと、時政は頼家の子一幡と弟の千幡を後継者に立てた。将軍権力の分割を狙ったためである。この事態に頼家と一幡の外祖父である比企能員は反発し時政の討伐を企てたが、逆に時政に誘殺され、比企一族もまた一幡とともに滅ぼされた。頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、千幡が源実朝として将軍位に就いた。時政は政所別当となり、将軍の補佐役として実権を握った。このような時政の地位は執権と呼ばれる。
1204(元久元)年、時政は幽閉中の頼家を殺害すると、娘婿である平賀朝雅を将軍位に就けようとした。この計画の一環として時政は幕府の重臣であった畠山重忠の一族を滅ぼした(畠山重忠の乱)が、これは政子らの反発にあった。その後朝雅は京都で殺され、時政は引退を余儀なくされた(牧氏事件)。
時政の後をついだのが、子の北条義時である。義時は和田合戦で侍所別当であった和田義盛の一族を滅ぼした。義時は政所と侍所の別棟を兼任し、執権の地位を不動のものとした。
実朝は成長すると政治に積極的に取り組み、政所の整備などに努めた。また宋の僧陳和卿の勧めに従って入宋を計画したが、船が座礁したことでこれは叶わなかった。しかし実朝は、1219(承久元)年に鶴岡八幡宮で頼家の遺児公暁に暗殺された。その後公暁も殺され、源氏の正統はここに断絶した。義時は親王を将軍に立てようとしたが後鳥羽上皇がこれを許さず、頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経が鎌倉にむかえられた。1226(嘉禄2)年に彼は将軍となり、これは摂家将軍、藤原将軍と呼ばれた。