見出し画像

人の口説き方を間違えると自分の価値を下げる|手と仕事#19

カメラマンになろうと思った時って一体いつだろうかなんてわかんないけど、20歳の時にカメラを手にした時には少なくともそんな夢見ていなかった。

ぼくがカメラを持つ理由を見つけた時に憧れた人はもちろんカメラマンで、アーティストで、芸術家で、気まぐれな大人で、そんな人の価値観を間近で覚えながらカメラと生きてきたぼくの感性はいつだってフォトグラファーや写真家って呼べるほど堅苦しいものじゃなくて、ぐにゃぐにゃと場所と環境で形を変えて、好き勝手に生きるように見えては何かを生み出すことをやめれないアーティストみたいで『手と仕事』もきっとそんな感性から滲み出る作品と呼べるものなんだろうって思う。


ぼくがカメラを持ち始めたのは前述している通り20歳の時、時期にすると2013年だ。
まだ今ほどカメラを首からぶら下げる同世代はいなくて、周りにいたのは大きなレンズを下げていつも大きなカバンを持つ大人たちばかり。
街中でカメラを構える人もいなくて、あの時のぼくは街のど真ん中で何かを撮る自分が少し恥ずかしかったのだ。
何が恥ずかしいのかはわからないけれど、なんだか変なことをしているんじゃないかって、あの時のぼくの心だけは普通の人だったのかもしれない。

それでもぼくはカメラを手放すことをしなくて、いつもどこへいくにもカメラとレンズはいつも持ち歩いていた。
山奥に行くのも、旅行も、海も、どこへ行くのもカメラを片手に撮り続けて、それがいつか自分の糧になると過信して、誰かがぼくを見つけてくれるんじゃないかって何もしていないのに期待していた
何もしていないのに誰が見つけてくれるなんて都合のいいことなんてないのにね、

気づいたら何年もそのままで、ひたすらに写真を撮り続けて、撮って撮って撮りまくっていたら長野に移住して、また撮って撮って撮り溜めていく。

『手と仕事』って無償で撮っていて、それって無償じゃないと撮れない何かがあるからと思っていたり、むしろ職人さんたちの手を撮るぼくのほうが協力金というものを払わないといけないからと思ってるから今の形がしっくりきている。
この企画の意味と思いを知ってくれている方たちに協力いただいて成り立っているけど『無償』という言葉だけに惹かれてDMをしてくれたり、思いを汲み取ってくれてはいるのに、なぜかぼく自身がしっくりきてなかったり、結局は人対人のやり取りであって、その思いの届け方や伝え方を間違えると何か違和感を感じ始めるのだ。
 
その思いが素敵だからと人の言葉を借りて僕を口説こうものならぼくはその人を軽蔑するだろう、どうせならこんな素敵な私を撮ってはいかがだろうか?って言って欲しいもの。
ぼく自身もこんな素敵な企画の一部ににあなたを入れたらもっと素敵になるのだ、なんて言っては口説き落とす。

言ってしまえばぼくでも相手でも、口説き方を間違えなければ何言ってもいいが、その中におもしろと自分の価値を言って欲しいのだ。

ぼくはInstagramやnote、でいつも『手と仕事』のことをつらつらと語っては未来のぼくがやりたいことをこうして話してく。

一回の想いじゃ伝えきれないってわかったから、何度も何度も全国にいる誰かに向けてラブレターを書き続けるわけで、それはまるで昔の歌人たちが想い人を思いながら朝から重たい言葉たちを歌に乗せるように、声も届かないあなたや未来のぼくに届ける。

その言葉を見た誰かはぼくに「今なん人くらいなんだい?」なんて聞いて、未来のぼくは過去の自分の想いを見ては「なんとしてもやり遂げないとな」なんて思って奮闘するんだ。

ぼくはまだ過去のぼくに口説かれ続けて、これから先も未来のぼくを口説き続ける。

美味しいご飯に使わせていただきます