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「やらない」を決めた時、仕事が舞い込んでくるようなった|手と仕事 #16


未来のことは未来のぼくがどうにかするだろう、なんて曖昧で無責任なことを今のぼくは口にする。

カメラマンとして活動をしていく中、様々なことを撮影することがあったけれどどれをやるべきで、どれをやめるべきかなんて取捨選択をする理由が必要なのかあの頃の僕には分からなかった。

だって仕事は仕事であってどんな形であっても「カメラマン」として報酬をいただくものになんら変わりないだろうって思っていたんだ。クライアントやお客さんは僕だからと頼んだ人はあの時は少なくかったと思うよ、だってまだ名前も技術も知れ渡る前だったしなんとなく知り合いたちに写真も撮れるんだねぐらいの認識をされてきた頃でその周りにいる人たちからしたら「やまぐちなおと」って誰やねん。ですわ

あの頃って何もかも来てた仕事受けまくってたけど、途中からなんか変な感じがしてきて失礼ながらも「あ、今回の苦手かも」って思いながら仕事していた時もあったりした。

ぼくじゃなくてもいいならやらなくてもいいじゃん

なんてひねくれたカメラマンなんだろうかと我ながら思う。
そこに自分の意思が存在しないならぼくがその仕事をやる理由があるんだろうかとか、誰でもいいならもっといい写真をとる人がいるだろうなんて捻くれた考えを持っては仕事をしなくなった日もあった。

あの頃は気づかなかった。

自分のカメラマンとしての名前を知れ渡らせる方法も、仕事が舞い込んでくるようになる方法も何も知らなかったんだ。

けどそれは仕事をいくつもこなすだけじゃない。
がむしゃらに何でもかんでも手を出せばいつか見つかるわけでもない。

ぼくがやったのは「やらない」を決めただけ


カメラの仕事っていくつもあって
家族写真だったり、七五三みたいにお子さんを撮ったりもあると思う
結婚式にも、学校の行事にもカメラマンはやってくる

そういうある意味「一般」の中にいるカメラマンをぼくは「やらない」ことと不特定多数からの個人依頼をやめた。完全にではなくてたとえば関係性のある人や、DM等の段階で想いを持てくれている人などの依頼は受付中だ。

そんなこんなでやめたことで残ったのは演劇や現代アート、イベントなどの表現に関する撮影。
そこから生み出される仕事は、ある一定の人種のみを受け入れる世界だった。
そして、「やまぐちなおと」という存在と意思が必要な場所だったり、それとは全く逆に存在と意思をなくせという現場もあったりでそれはそれで楽しい、何よりぼくがこの「表現」をする人たちが好きなんだろう。

だからなのかもしれないと思うこともあったが、やっぱ最後に出てくるのは「やらない」を決めたことがでかい。
『手と仕事』の投稿をSNSですればなんとなくの世界観は伝わっていって子供を撮る人じゃないんだろうなとか、こういうテイストなんだろうなとかなんとなくでも雰囲気は伝わり、いつの間にか感染するみたいに広がっていく。

どことなく「やまぐちなおと」という名前とぼくが作り出す写真の色味だけが一人歩きをしては世間の中にひっそりを痕跡を残し出す


「やらない」を決めたことで見えたのは「やる」こと
「やらない」を決めた時、仕事が舞い込んでくるようなった話




美味しいご飯に使わせていただきます