カメラマンの肩書きを脱ぎ捨てて”やまぐちなおと”として生きてみたら、24_0802
夏だな、気付けば梅雨は終わって、夏がやってきた。
ぼくの住む長野県松本市は避暑地、というほど暑くないわけじゃないけれど、関東や都会に比べたらいくらかは過ごしやすい気候になるのだろう。
そんな短い短い信州の夏の真っ最中にやってきたのはとんでもない日々の繰り返しでした。
感性を柔軟に曲げること
突然だ。唐突だ。
ぼくはカメラマンという肩書きを手に入れて、長野県松本市を拠点に様々なことに手を出しては足を突っ込み、気付けばその仕事位の幅は「カメラマン」という肩書きに依存した仕事ばかりじゃなくて”やまぐちなおと”という一人の人間に仕事が集まってきているイメージがあった。
しかしながら「やまぐちなおと」と突然言われても何が何だかだろう。
自分てなんなのか、どんな人間なのか、と去年書いた記事を元に2024年の固定となるべくものを作っていこうかと思う。
まずはじめにだけど、「やまぐちなおと」という人間はカメラを生業にして、長野県松本市にシェアハウスの運営とコワーキングスペース内での業務委託スタッフなどそもそもほとんどがカメラマンという肩書きを脱いだものばかり。
下記のリンクはシェアハウスについての記事↓
脱ぎ捨てたものばかり、と言っても結局のところは『カメラマンのやまぐちなおと』というものにまだ依存しているのはわかっている。
カメラマンのぼくが繋がって、カメラマンのぼくが繋いで
今の仕事を獲得したり、過去の大きな仕事をいただいたりとしている。
そして今のコミュニティや今ぼくのいるコワーキングスペースなども、さまざまな形のカメラマンのやまぐちなおとがいたからなんだと思っている。
それは”感性”と呼ばれる自分の中にあるこだわりや価値観が人や環境に合わせてぐにゃぐにゃと形を変えて、形を留めることなく変容を続けるからこそなんだろうと思っている。
実際にこだわりが強く、何事にも揺るがない「価値観」というものが存在したときって、あまりいい思い出がなかった。そして自分の中の何かがぐにゃりと曲げたくない方向に曲がっていく感覚だ、
反対に根本的など真ん中にあるものはどんなことがあっても揺るがなくて、周りのものや環境などによって感性たちが形などを変えていくと不思議とうまくいくことが多かった。
それがボクにとっては手と仕事で、SUNAPPUで、UTSURUで、それらはInstagramやnoteを介して人の中に浸透していくのです、
手元を取らせるならあいつだろう
アンダーな作風にするならあいつだろう
地域のことを見つけさせるならあいつだろう
白黒の写真を取らせるならあいつだろう、って
そのあいつの中にボクが居続けることで、仕事というのは自然に向こうから勝手にやってくるのです。
肩書きを脱ぎ捨てたそこには誰がいるのか
個人で仕事をしていくにあたって、誰が、どんな人が、という中身のことも必要になってくる。
例え仕事ができる人材だとしても、周囲との関係性や自分自身との交流具合、それらによっては人としての価値をどう見るのかが大事になるんだろうなと思うんです。
カメラマンのぼくはきっと顔をたまに引き攣らせて、無理な笑顔を作る時もあるのだろう。
昔はそうだった。
七五三の撮影や家族写真のご依頼を受けた時にはうまく笑えているだろうかと不安にもなった。
いつもいつも肩書きに踊らされるのは僕自身なのだ。
あの頃はカメラマンになろうと必死で、どんな仕事でも受けてやろうという気持ちでどんなに単価が安くても受けていた。
けど、次第にそれはぼくの首を押さえつけるものになり、手足の自由を奪い、ぼくから「平常心」というものを奪い去っていくものに変わった。
肩書きというものを脱ぎ捨ててみたその場には”やまぐちなおと”っていう、ちょっとヘラヘラしていて、ちょっとおかしくて、写真が見せてくれる世界が大好きなただの人間が一人居て、周りにはそれを受け止めてくれる人たちに溢れかえってました。
周りの評価でぼくの価値が決まる。
そして何もかもを脱ぎ捨てて、「やまぐちなおと」として生きるぼくには今もカメラマンとしての依頼もくるし、シェアハウスの入居の問い合わせや、面白そうな人たちに繋がれそう、というものまで様々な価値をぼくにつけるのです。
そう、カメラマンだ。って意地張ってた時よりも今の方が大きな案件が月に何回か入ってきて、それがまた価値を上げる。
それをみた誰かが、また誰かがという具合に価値を上げ続けて、シェアハウスうら町baseに行けばどうにかなるんじゃないか、あいつに声かけとけばなんとかしてくれるんじゃないか、とりあえずつながっておけばどうにかなるんじゃないのか。
結果として、肩書きなんてそんなに力入れて守るもんじゃないってことと
それを脱ぎ捨てたところで世界は何も変わらないし、自分の見る景色も変わらない。
むしろカメラマンとして依頼されるよりも「やまぐちなおと」としての仕事依頼が増えてきて前よりいいんじゃないかと思えたよ。
この選択にどんな意味があるのか、どんな未来があるのかはまだ不確定だけど、それでもぼくは肩書きを脱ぎ捨てるということをしたおかげで今があると思ってる。
美味しいご飯に使わせていただきます