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我々は孤独なのだろうか

一人暮らしをしている。
ほとんどの日々を一人で過ごしている。
だが、わたしは独りではない。
そう思えている。

誕生日を迎えて2ヶ月程経ってから
友達と旅行に出かけた。
定期的に旅を共にしているメンバーで、その中にわたしよりも誕生日を迎えたばかりの奴がいた。
その友達の誕生日を祝うことも旅の一つの名目としてあるのだろうと思っていたのだが、和歌山の山道を脱輪しそうになりながら進んで進んで、もうこれ以上進めない所にポツンと建った平家に泊まり、BBQをして、夜が更けた頃にそれは突然訪れた。

ハッピーバースデーの音楽が鳴り、2つ折りになった色紙の様な物を手渡された。
なんだこれ? 
裏向きに渡されたそれをひっくり返す。
そこにはHappy Birthday!!!と記されている。
え?どういうこと?
状況が飲み込めないままとりあえず開いてみた。
するとそこには、企画してくれた友達を筆頭に仲の良い人たちからの寄せ書きが並んでいた。

いや、ちょっと待て。
今日は俺じゃないだろ!
そう思いながらも涙が止まらなかった。
嬉しかった。ここにいたんだと思った。


一人で暮らしていると勘違いしてしまう。
好きなバンドの歌詞にも出てくるが、
一人と独りを履き違えてしまうのだ。
会えていない間、自分のことをどう思っているのか、会いたいと思ってくれているのか。
それは分からない。分からないから孤独を感じてアパーーと白目を剥いてしまう。関わり合いの中だけに繋がりが存在しているわけではない。意識の中から薄れようとしていても記憶や見えない何かで繋がっているのだ。

先日、中学の同級生が
「結婚式に来てくれないか?」と会いに来てくれた。直接おめでとうと言えてなかったのでわたしが地元に帰ろうと思っていたのだが、俺が行くよと来てくれて直接伝えてくれた。2年程会えていなかったが、昨日会ったばかりの様な安心感があった。
そもそも結婚式に招待してくれた事もそれを直接伝えようと思ってくれた事も久しぶりに会えた事も何もかも嬉しかった。
喜びを噛み締め、胸が跳ね、視界は輝き滲んだ。


わたしは自分は孤独だと思い込んでいた。
けれど、案外そうでもないらしい。
マラソンで例えれば給水所ぐらいの間隔である
誰かとの繋がりを感じられる機会をその残滓を
傷付くための槍から日々を生き抜くための杖に持ち替え、誰かのことを考えたり想ったりして
これからも自由にお気楽に精一杯やっていきたい。


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