ぎらりと光るダイヤのような日
最初にこの詩を読んだときはどきっとした。
そのときは仕事に忙殺されていて、"本当に生きた日"なるものを感じることなどなかったからだ。
誰にでもできる仕事じゃなかったと思うし、それなりに情熱は注いでいたと思うけど、日々に色彩を感じなかったのは、歩きやすい轍の上を歩いているだけに過ぎなかったからだと思う。
それから4年ほど歳月が過ぎた。
1ヶ月間歩き続けた乾燥地帯を抜けて、シエラネバダ山脈を歩いていた時のこと。
乾燥地帯の残り香を感じさせる赤褐色の峠を越えると、そこには色鮮やかな生命の息吹を感じさせる世界が広がっていた。
止め処なく広がる群青に向かって石灰色の巨大な山脈が背伸びをしていて、深緑の木々の足元には若草色の草原が広がっていた。
一面に広がる湖に向かって駆け込む清流の流れは陽の光を反射させて煌めいている。
マーモット達は間抜けな声をあげて追いかけっこをしているところだ。
気がつくと足を止めて立ち尽くしていた。
息を呑む鮮烈な絶景だった。
今まで息をしていなかったのではないかと思うぐらい自分の呼吸を感じたし、今まで目を開いてなかったのではないかと思うぐらい全てが鮮明に見えた。
熱に浮かされたかのように、狂的に五感が研ぎ澄まされている事が分かった。
それはまるで、感動のむこうがわにたどり着いたかのような瞬間だったと思う。
日本人とか、PCTハイカーとか、過去に何をしててこれから何をしたいかとか、すべてのくだらない肩書きやしがらみを捨てて、剥き出しの自分で大自然の中に存在できた実感があったし、心には一点の曇りもなかった。
紛れもなく、ぼくは"本当に生きた日"なるものを送ったのだろう。
そして今でもそれはぼくの中でぎらりとひかり続けている。