オーディオリンガルは博物館へ(2)『みんなの日本語』
「オーディオリンガルメソッド」
博物館の収蔵庫に眠っていると思っていた教授法の名前です。
まず、時間の流れから。教科書の出版年を見てみましょう。
1974年『にほんごのきそ』
1081年『日本語初歩』(国際交流基金)
1990年『しんにほんごのきそ』
1998年『みんなの日本語初版』
2011年『できる日本語』(アルク)
2012年『みんなの日本語第2版』
今年51歳になる学年の私が新卒で教え始めたのが1994年。岡崎敏夫先生の『日本語教育におけるコミュニカティブ・アプローチ』が出版されたのが1990年ですから、私が大学生の時にはすでに、コミュニカティブアプローチについてレポートを書いていた、というような時代感です。そして、佐々木瑞枝先生が「オーディオ・リンガル・メソッドとコミュニカティブ・アプローチの融合をめざして」を出されたのが1994年で、『しんにほんごのきそ』をコミュニカティブに使うにはどうしたらいいかを論じていらっしゃいます。ですから、『みんなの日本語』はコミュニカティブ・アプローチがでたあと、それも、オーディオリンガルとの融合をめざした後にできた本です。(めざしただけと言われればそれまでですが・・・)
ですから、いくら『にほんごのきそ』の流れをくむ教科書だからといって、「オーディオリンガルの本」とするのは妥当ではないと思います。もし、「形式的な練習がある」という意味なら他の本にもありますし、「教師主導の」という意味ならTPRなどもそうです。
ただし、今『みんなの日本語』がコミュニカティブに使われているか、と問われればNOと言わざるを得ない現状にあることは認めます。どうしてこうなってしまったんだろう・・・と考えていたのですが、3つの原因に思い至りました。
1つは初版の『教え方の手引き』の詳細なオーディオリンガルのパターンプラクティスの記述です。オーディオリンガルが意味内容を重視しないことに反対したうえでですが、あれほど細かく書かれていれば、オーディオリンガルの機械的な練習を重用する教科書だと誤解されても仕方がないと思います。
2つ目は『日本語初歩』の流れをくんだ先生が養成講座の講師をしていたことです。今回、『日本語初歩』を見て、20年前、どんなに話をしても話がかみ合わない先生がいらっしゃった原因を突き止めた気がしました。あんなふうに「いいかえ」「おきかえ」と何をするかを明確に指示してある教科書を使っていた先生にとって、『みん日』のように、例から何をするかを類推しなければならない教科書は、どんなにコミュニカティブな話をするための前準備だと説明しても、機械的な練習としか受け取ってもらえなかったのは仕方がなかったことかもしれませんし、教科書にコミュニカティブな練習をするよう指示がないのですから、コミュニカティブな練習をしない教科書だと受け取る方がいらっしゃってもおかしくないことにも気づきました。まさに教科書に対する常識が違うのです。そして、私が20代で勤務していたころ、『初歩』を使っていらっしゃった先生が軒並み、日本語教師養成講座の講師をしていらっしゃいました。(そうでなければ、現場経験が少ない大学の先生)『日本語初歩』が頭にある先生が教えた生徒さんが教師になれば、それは機械的な練習になるでしょう。そうやって養成している講師をみて講師になった講師の方は、やはりそれを引き継ぐ・・・ということで、本が『新基礎』や『みん日』になったところで根が変わらない原因のような気がします。
そして、三つ目。1999年ごろから『月間日本語』にOPIの連載記事が載るなど話すことに注目が集まってきたところへ2011年に『できる日本語』が出版されました。先ほど、養成講座の講師の方の話をしましたが、その中でも「これは違う」と感じていた、コミュニカティブな練習を推進したい先生方が一斉にそちらへいってしまった可能性があります。結果、『みんなの日本語』界は、ガラパゴス化してしまったのかもしれません。
ですが、それと『みんなの日本語』がオーディオリンガルの教科書か、というのは話は別です。この教科書で何を習得してほしいのかをしっかり持っている教師なら、その練習が何を目的としたものか、そのうえでどんな練習をしなければならないかはわかるはずです、わからなければさがすはずです。
私の意見ばかりでは、あてにならないということであれば、森山新「第二言語習得研究の歴史」の中の「オーディオリンガルメソッドと機能ー概念アプローチの対比」にある「オーディオリンガルメソッド」のメソッドを御参照ください。『みんなの日本語』のやり方にそぐわないものがいくつも見られますから、参考においておきます。(孫引きというか、ひ孫引きのようなかたちですみません。)
そして、私が次にしたいことは、『みん日』をコミュニカティブに使う知恵を出し合って工夫し続けることです。
いろいろな教科書がでた現代、様々な現場に応じた教科書があり、そういう場所ではそれを使うのが一番です。『みん日』は、傷にも、にきびにも、火傷にも効くと書いてあるオロナインのようなもので、にきびにはクレアラシルを塗ったほうが聞くならそれを使うのが一番です。でも、火傷をした時はクレアラシルよりオロナインのほうが効くでしょう。
そんな風にさまざまな理由でまだ『みん日』を使っている現場は、『みん日
』で効果を上げる知恵を出し合ったほうがいいし、そうしているうちに、より適切な教科書ができれば、そちらに移ればいい。『みん日』を使うのがまどろっこしくなってきたら、教科書なしにしてもいいと思います。工夫した経験は中級や試験対策などほかの授業を組み立てるときにも役に立ちます。
不備がたくさんある『みん日』だったとしても、長年の使用でうまく使うノウハウが蓄積されている学校の場合、それをすべて捨ててでもほかの教科書にうつるというのは、簡単なことではありません。新しい教科書について知識のある有力な牽引者がその組織に必要です。その人の出現をはばむものではありません。『みん日』を効果的に使う方法を考えているうちに、あれ、これならこっちの教科書を使った方が楽にやりたいことが実現できるんじゃない?こっちの教科書にしよう。そんな流れになることもあるかもしれません。
オーディオリンガルは博物館に返しましょう。
そして、今のニーズに合うやり方でやりたい方、一緒に考えませんか。