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神の陳腐化とエホバの証人二世の話し

神の陳腐化が止まらない

ぼくが最初に違和感を持ったのはアイドルのAKBだろうか。主要メンバー7人に「神セブン」などと呼び出したあたりだ。記憶頼みで曖昧だが時代は2012年頃だろうか。

その後、テレビのバラエティやラジオなどで、これまで以上に秀逸、面白かった放送回を「神回」などと呼び始めた。

日テレ 神回だけ見せます公式Xより

この辺りで「神」の字の持つ神秘性、希少性は失われ、完全に身近に使用できるものとされてしまったのである。

「神は細部に宿る」として日本人は色々な所に神を見てきたはずだ。

ご来光を押し頂き、富士山に感嘆し、大海原に心惹かれ、目の前の食材にも手を合わせてきた。
職人の匠にも心を打たれ、先祖の御霊に思いを致し、花の咲くと散るを愛でていた。

もしかしたら、この情緒も少しずつ失われて行くのかも知れない。

今や「凄い!」「ありがたい!」「嬉しい!」の代わりに
ポップに「神!」と叫ぶようになった。

2文字で済むコスパの良い感嘆符を、簡単に掴んでは投げ付けている。

それが周囲に最も共感し得る言葉となっていて、これまでの「神」は完全に形骸化し薄まってしまったと言って良いのだろう。

エホバの証人二世

ぼくは悲しくも一神教の家庭で育った。エホバの証人という。今はJWとか言うらしい。駅前街頭で冊子を持っていたり、各家庭を訪問したりしている連中だ。

海老名にある本部。Wikipediaより

可哀想で愚かな母が心の隙間を許して入信したものだが、ぼくがモノ心付いた頃には、彼女の心は完全にエホバとイエスに囚われていたようである。

子供だったぼくに、信じろと言われても信じられるものではない。

しかし、共同で生活していく上では、順化がもっとも心の隔たりが少ない選択肢であり、繰り返すがぼくは子供で選択の余地は無かった。

のちに信心は他人に説かれて獲得するのではなく、自身への内省から自ずと体得するものだと悟った。

強烈な同調圧力と、言わばムラ化した集団が1つの方向に進んでいき、疑義を呈することも赦されない空間はとてつもなく窮屈で不自由であった。

それでいて躾の結果は審美的であり、下品で野卑たものを無垢な子供には極力見せまいとする精神は、どこの親もおそらく同様である。

婚前交渉はもちろん禁止されているが、ダメだと言われるほどしたくなるのも人情だ。

ぼくの男の友人が「エホバの証人の女がめっちゃエロくて最高だったよ」という最低なレビューをくれたこともある。

個別に会えばどいつも大体良い奴なんだ、チクショウ。

問題は躾の方法であり、今では完全な家庭内暴力、DV、虐待の類である。


叩くのは決まってお尻

集会内での粗相があるとその場での叱責があり、帰宅後に「懲らしめ」と呼ばれる体罰があった。

「懲らしめ」フラグ確定後の集会からの帰り道は、実に暗く恐怖に満ちたものだった。

初回は孫の手だった。

120センチ程度の棚に手を付き、ズボンとパンツを脱ぐよう言われ臀部を突き出す。

例えが下品で申し訳ないが立ちバックの女性側のような態勢だ。

そこに振り乱れる髪も気にせず汗だくの母が、ぼくの尻に孫の手を振り抜く。

孫の手は中央部分が細くなっており、数回であっという間に折れた。

折れた孫の手には、のちに緑色のガムテープで修復が施され、本来の役割に戻っていった。

なんだよ、このクソのような記憶は。

「懲らしめ」の道具はどんどん強化されて行き、ふとん叩き(これも割とすぐダメになった)、金属製のハンガーを数本束ねたもの(ミミズ腫れがひどく使用は1回のみ)、庭などで使用する水道ホース。

そして一番に痛かったのは、ガスホースである。暗いオレンジ色の暴力。

モノタロウより。こんなに明るかったか。

半分に折って更にツイスト、これをガムテープでぐるぐる巻きにしたものが最も痛い。ほぼこん棒である。

教室で防災頭巾をクッションとして使用して座る児童のパンツの中、その尻が無数の線状のアザだらけになっていることを知る者はいない。

体罰の証拠はパンツの中にしかない、という露見性の低さが非常に悪質であり、道具による「懲らしめ有効度」を集会で共有し合う兄弟・姉妹たちが実に悪魔的である。

言ってわからないなら叩け、はある程度正しいが

つまり話しの通じない動物なら実力行使も止む無し、ルールが守れない子には罰を、ということだ。

一方で、何度言っても聞かないのなら、聞かせる方法を変えてみれば良かったのに、と昔の親に今思う。

方法の工夫をせずに成功率の低い方法を実行していた訳で、
何度も言うが相手は子供だ。

親が責任をもって子供をしつけるのは、どこの家庭でも一般的のことであり、世間様に迷惑をかけない上質な人間を創り上げるのが親の務めということなのだろう。

だが、ぼくが年齢を重ねて感じることは「世の大人も案外コドモである」ということである。

少年少女のよう。無邪気と言えば聞こえは良いが。

精神的に幼稚な大人が思っている以上にあふれている。無論ぼくも排除しない。

褒められれば気をよくし、激しい嫉妬を抱いたり、プライドや自意識が邪魔をして、本人の行動を大きく左右させていたりする。

つまるところ、ぼくの母は親としての責任に苛まれたコドモで、腹を痛めて産んだこの憎たらしいクソガキを「懲らしめ」ていたのである。

コドモが子供を叩いていた訳で、実に不毛である。


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