ルイヴィトンにヘルプマークを付けるセンス
数か月前、電車の中で見かけた。山手線だったと思う。
僕は車内ドア横に立ち、揺れる乗客を眺めていた。
と、ある駅で乗車した細身の女性。
帽子を目深にかぶった品の良い女性。
彼女は空っぽの優先席に小ぶりなカバンを置いた。ルイヴィトンの。
そこで強烈な違和感を発する。なんと、ルイヴィトンのバッグの取っ手から、赤いヘルプマークが顔をのぞかせたのだ!
てめぇ!金持ちじゃねえのかよ!
まずこう思った。
カラフル・モコモコなヴィトンのカバンかざして「ザアマス」するご婦人で、金の余裕があって体の具合が悪い?タクシー使えや。
ヘルプマークは見たことはあったが、妊婦さん方がつけているアレの障害者バージョンだと思っていた。
思い起こせば、座らずにまずカバンを置いたのも引っかかる。さっと座れば良いのに。
「私のバッグ、御覧になって?」だったのか?
置いたカバンを離す指には驕奢な指輪が光っていたし、実際の経済状況はどうあれ、優美な恰好はしているわけだ。
こんなことは書かないほうが良いことだとも思っていたが、僕の末の妹は障害者手帳を持つ身だし、僕は極力フレンドリーでありたいとは思ってるんだ。
そこへ投げ込まれたヴィトンだから衝撃が強かった。
前提が間違っていたのかも
ここで我に返る。
そもそもヘルプマークって思ってたのと違うんか?
ははーん。つまりそもそもヘルプマークは公共交通機関用なのであって、障害者手帳のようなもので無かったということだ。
もっと何かの優遇を得ているのかと思った。
電車賃無料とかバス代無料とか。ここに錯誤がある。あまりにもこれ見よがしに付けてるし。
「優しくしてね」程度だったのだ。別にもともと優しいけどね。優しくしてをカツアゲしないで欲しい。
去来する自分の醜さ
ヘルプマークが大したことが無いことが分かったところで、襲い掛かるのは「金持ちがなーに甘えようとしとんのじゃ」がよぎった自分の精神性の醜さである。
菅さんが総理大臣になったとき、大切なものとして語った点にこんなことがあった。
「自助、共助、公助の順に大切にしたい」こんな感じで言っていた。
見ている当時は「堅苦しくてわかりずらい」と思ったが今ならわかる。つまり、
・自助(自分でがんばれ)
・共助(知り合い近所とがんばれ)
・公助(国もまぁがんばるかも)
てことなのだろう。
僕は今回ヘルプマークは3番目の公助にあたる電車賃タダみたいな効能があると思っていたし、ヴィトンを見て「てめぇは自分で何とかなる稼ぎがあるんじゃろがい。自助せい」と思ってしまったのだ。
見た目の影響力に左右されてしまって情けないが反省すべきだ。
裏を返すと手厚い保護を受けている身で贅沢すなよ、という思いが根底に横たわっている。実に醜いし、本来これじゃダメなんだ。
稼ぐ稼がないは本人の自由であるべきなんだ。
と言ってもやっぱり、
ヴィトンのバッグにヘルプマークを付けるセンスってどうよ?
とも思う。面の皮が厚いというのか何というか。
僕はまだブランド物にヘルプマーク付けてるマダムより、ヨレヨレ服のおばあちゃんの方へ、優しさを向けたくなるのはどうしたら良いです??