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伊集院光論

ぼくは伊集院光のラジオのファンだ。
深夜の馬鹿力は特定の週を除いて欠かさず聴いている。

これは、先日別のテキストを書いていたらアウトプットが楽しくなってしまい、勢い余って書くものである。

大絶賛褒めまくり、という文章では無い。本人が知ったら傷付くこともあるかも知れないから、関係者の方は見ることをオススメしない。絶対に。

鍵をかけるような意味での有料化であり、「それなら書かなきゃ宜しい」という指摘は妥当であるが、書きたいものは書きたいという気分だから仕方ない。また、テレビを見てない(家にない)一般人の意見であり、テレビ番組での彼の活躍はあまり知らない。ラジオのオープニングで、出演番組の裏側がこぼれてくる程度である。

独自の視点

伊集院光を語る上で欠かせないのは、独自の視点である。
伊集院光は個別具体的な事象を前にして、メタ的な視点を持ち込んで抽象化するようなことがある。
例を挙げると、テレビ番組で映っていない部分や、編集で切られたであろう部分にフォーカスすることがあるのである。
そこへ考察をめぐらし独自の見解を見出し、仮説を立てたりボケを入れたり結論を出したりする。

リスナーを本来見えていなかった部分へ視点誘導するのだ。
本仮屋ユイカは「主観と客観の移動のスピードが速い」と評しており、あたかもカメラのスイッチが切り替わったように視点が変わる話し方を、確かにするように思う。

ネタバレが嫌い

伊集院光は極度にネタバレを嫌う。しかし、これは一定の年齢以上のオジサンに、特に顕著に共通しているのではないかと見受けられる。

経済的に独立した女性も、妙齢になると心にオジサンを芽生えさせ、やはりネタバレに過剰な反応を見せることがあるようである。

作品をこの上なく大切にして我が事にしている。
そもそも物語や作品の受け取り方は千差万別であり、白眉と思う部分や、各々に審美眼の差異があろう事はよく考えれば分かりそうだが、ネタバレをしてくる相手のアウトプットが完璧で過不足なく結果を伝えてくると信じてか、頑なにこれを嫌う。

伝え手が拙ければ、ただの取るに足らないコミュニケーションの一つであり、相手の話を遮ってまで「ネタバレを辞めろ」と声高に叫ぶ必要は無いはずである。

これはネタバレを仕掛けてくる相手のパフォーマンスへの信頼と恐れでもあり、新鮮な自分の反応を楽しみたいという自分への興味でもある。
これが伊集院光には顕著である。
今にして自分に興味津々なのである。

他方、ラジオで散々ネタバレが嫌いと公言しており、そのネタバレ嫌いを利用することで、放送中に使えるエピソードとして利用しているのではないか、とも考えられる。

なぜなら、ネタバレに対する感度は異常であり、現に「らじおと」では『半沢直樹』をあえて見ないでネタバレしないよう生活するという企画を作るほどである。

つまりネタバレを嫌うというプレイであり、さらに商売道具として利用しているのだ。

野球が好き

伊集院光は野球が好きである。だからラジオでも散々野球の話しに付き合わされる。

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