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あの頃の僕たちを旅する #あえていまセカチュー

「世界の中心で愛を叫ぶ」という物語を今読むということは、僕にとってはまだティーンだった頃の自分と彼女を俯瞰する旅だった。


セカチューという愛称で当時ちょっとした社会現象になった本作を初めて読んだのは、たしか中学1年だったと思う。
当時、現在のパートナーであり幼馴染である彼女との関係を、身体の性別が同じというだけでまるで滅びゆく種であるかのように考え───ふたりの未来を悲観していたし、目の前のことでいっぱいいっぱいで、今にして思うと中学1年から2年のこの頃の僕は、少しばかり複雑な時期だった。
小学4年だか5年生だかの時に見つかった不整脈の疾患は、数年の治療と経過観察を経て、近いうちにカテーテルでの治療をすることが本決まりになろうとしていた。上記の通り生まれて初めてお付き合いした女性がいて。中学1年の12月には最愛の曾祖父が逝去したこともあり、総合すると「愛する人の死」というテーマは心に響かざるを得ない時期だったのだと思う。原作を読んでから映画もドラマも見た。「自分の為の物語」なんて思っていたのかもしれない。


大人げなく涙が頬を伝ったのは、開始たった3ページ目のことだった。
原作の小説を読んだのは心臓の治療に通うため遠くの循環器内科が有名な総合病院へ向かう、父の車の中。窓から見える曇天をよく覚えている。
作品の冒頭、朔太郎が車に乗り込んだ時のような空だった。
朔太郎が飛行機に乗り込み、機内で生前のアキを夢に見て、涙を流す場面。涙を流さずに彼はアキの夢から覚めることが出来ないのだ。その姿を想像して、僕が朔太郎だったらきっと同じだろう、そう思うと僕も泣かずにはいられなかった。この物語を読んでいる瞬間の僕は、まるであの頃の、14歳の僕だ。
当時の僕は朔ちゃんと自分を重ねることを越えて、自分と彼はそっくり似ているなんて感じていた。アキと、今はパートナーになった当時の彼女を重ねたりもした。簡単なことも小難しく考えたがったあの頃。自分がこの世から消えてしまうことと、彼女がこの世から消えてしまうことはまるで同じ意味だった。いや、正直いうと今でも僕はそう思っている節がある。僕は彼女が僕より先に逝ってしまうことも、彼女を残して僕が逝ってしまうことも同じくらい怖い。

読み返してみて、特に好きだったシーンがある。アキが教師の葬儀で弔辞を述べる場面は、朔太郎の目線で語られる透き通るようなアキという女性の魅力がとてもよく描かれた場面だと思う。よく女の子は男の子よりも成長がはやい、とか大人だとか言われるけれどそれを含めて、しかしそれだけを表現した場面でもない。あの瞬間は朔太郎が自分の目で彼女の特別な魅力をキャッチした奇跡的な瞬間で、それが僕にはどうにも愛おしく思えて仕方なかった。
僕のパートナーもそうだった。中学でいじめられっ子だったクラスメイトの女子がリコーダーがとても上手くて。それに気づいた陽気な音楽教師は、彼女を中心とした数人のリコーダーアンサンブルチームを結成し、昇降口の近くの広まったところでミニコンサートを開催した。いじめっ子たちは彼女たちの演奏を横目にクスクスと笑っていたけれど、パートナーの彼女は違った。ムッとした表情で「笑うなら●●ちゃんたちより上手くリコーダーを吹いてみろよ」と、ひとりその状況に憤っていた。僕はというと自分自身がいじめられっ子なところがあったから、いじめっ子に同調もしなければいじめられっ子たちを擁護しようともしない、事なかれ主義でいた。だから彼女がその頃持っていた、年齢にしてはちょっと達観した「誠実さ」が僕には眩しかった。周りを見渡しても、どの同級生だって彼女のような誠実さを持っていると思えなかったから。
弔辞を読むアキの誠実で真面目な姿にあの頃の彼女を見ていたし、アキを想う朔ちゃんに自分を見ていた。


少しだけ驚いたのは、作中で最も好きなセリフだった朔太郎のおじいちゃんの、「残されたもんにできるのは、跡片付けだけだよ」というセリフが映画オリジナルだったということ。他にも入院中のアキが手品を覚えて披露するシーンも、映画オリジナルのシーンだった。無人島から帰ったアキが港で倒れ、朔太郎がアキのお父さんにビンタされるシーンも原作には登場しない。思っていたより、原作と映画とドラマそれぞれのシーンがごちゃ混ぜになってしまっていたらしい。そう考えると、原作はかなりシンプルな構成だったことがわかる。

ドラマや映画のシーンを思い返して、なんとなく物足りない後読感だったのがかえってリアルな気がした。
シンプルで余計なドラマチックは盛り込まない。アキの体調は努力空しくみるみる悪くなる。だから映像化に伴って色々足したのだろうけど、実際人が病に冒され命をなくしてしまうことはこんなふうにあっけないのだと思う。次の季節の約束は果たせないことの方が多いんだろう。

この作品を20代の頃にふと振り返って「あんな恋を、あんな年齢でしてしまったらもう誰の事も好きになれないんじゃないか」なんて思いもしたけれど、原作の成長した朔太郎にはどうやら恋人もいるようだ。
僕と彼女の恋も当事者視点では大恋愛だったし、「この人と離れたらもう誰も好きになれないかもしれない」と思ったこともあった。そう思い続けたから、今こうして隣にいてもらえるように、人並みに努力はしているつもりだけれど、実際離れていたら僕も朔太郎のように他の誰かを好きになったかもしれない。
ロミオとジュリエット然り、どちらかが亡くなる大恋愛も、どちらも生き残って尚且つ一緒にいることが許されて「禁断の愛」ではなくなれば、それは普通の恋になる。
僕たちも世の中の変化のおかげもあり、気付けば思っていたよりも普通の恋になっている。無人島以降の朔太郎とアキの普通の恋も、見てみたかった。



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