冬、ニュージーランド日記
ニュージーランドの冬が終わっていく。
ずっと彩りをくれていた椿が腐葉土になっていくのを見て、こんなにも日々にじっくりゆっくり愛おしさを感じながら、過ごす冬はいつぶりだろうか。と考える。
ニュージーランドに来てからの冬はいつも牧場の出産シーズンだった。心も体も一年で1番忙しい時期。
朝3時に起き母牛をチェックして、1日中カオスの中子牛と戦い、やっと帰れると思ったら始まる難産。
激しい生死と日々向き合うヒマもなく、ただ目の前にある救える命を必死に救っていく。
早朝に凍える手を温めながら見た満点の星空、もうそんな時間か。と気付かされる日の出と夕焼け。
真っ平なカンタベリーにそびえる山脈をバックにあるその景色は絶景だったけれど、いつもどこか遠くにある美しさだった。
自分の心にも、目の前のことにも向き合う時間もなく、いろんなものを見過ごしながら、いろんなものを切り離しながら、ただ突っ走る。
冷たく、儚く、何もかも遠く、それでも美しい冬だった。
今年の冬は少し違った。ネルソン付近の海が近い、暖かい場所で過ごす。
日々動物に餌をあげるついでに、小さな自然が少しずつある豊かな敷地の中を散歩する。
葉が動く音を聞き、ふと顔を上げるとTUI が椿の花を吸っていた。
「TUI も蜜を飲むのか…」
ニュージーランドの鳥であるTUIは首元に特徴的な白いポンポンをつけた、わりかし大きめの鳥だったので、花を吸う繊細さに勝手に衝撃をうけ、しばらく見惚れていた。
すると、TUI と見れ代わりに同じ椿の木にsilver eyeがやってくる。
「お前も蜜を吸うのか…!」となんだかWでスペシャルなことを見た気になり、その日以来散歩するときは上もしっかり見上げるようになった。
そこまで大きくない敷地の中(野生動物にとっては)、たくさんの鳥を見るが、本当に上手いことやっている。
喧嘩しているのをたまに見るけれど、死んだ鳥は一度も見たことがない。
…2羽ほど鶏の餌箱に挟まれて死んだスズメはいたけれど。
あのTUI やsilver eye はお互いに、時間帯や場所があり、少しずつやっていっているんだろうな。と冬の間で気づいた。
鳥が蜜を吸い、椿は鳥たちに花粉を運んでもらい種を作る。花が枯れ、腐葉土になり森の土台を作る。椿の新しい芽がそれを栄養に成長していく。
自分たちが自分たちのために動きつつも、全てが繋がり、周り回ってまた種を助ける。
TUI のポンポンとか、花の鮮やかさとか、一見ムダだらけに見えて、1つ1つが意味をもたらし、結局は全体を助ける。
脱帽だ。
椿だけを拾ってもこれだけ繋がりがあり、ストーリーがあるのなら、私が知らないうちに今もなお、色々なものが回り続けているのだろう。
誰かがコントロールするのではなく、一つ一つが個々の営みを続けていくうちに回っていく自然。
自分が人間でいることに嬉しさを感じるのは、そんな自然の営みや循環を客観的に見て、美しさを感じれる時だ。
それよりもきっと、自分はその循環のたった一部でしかないんだな。とhumble さを思い出させてくれる感覚がいいのかもしれない。
どんだけ世の中が発達して便利になろうと、地球が、生物が、何億年とかけ築き上げてきたこの美しい循環には、私も、何もコントロールすることができないことを実感し、清々しくなる。
そんな気持ちを椿の花が混じった腐葉土の匂いの中に感じ、少しの寂しさと愛おしさを覚えた。
今年の冬は、なんだか妙に温かかったな。