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5歳の私へ

大人になるにつれて、見栄を張りがちになる。
生きることの意味は大きくなければならないとか、目標を達成して周りから一目置かれたいとか、
「自分なりの」を目指して頑張っているはずなのに、いつの間にかそこに承認欲求が入り込んで、周りの目を気にし、世間体を気にし、偉大なる輝かしい「人生設定、自分の価値とは〜」みたいな映画のタイトルに騙され、逆に自分を見失ってしまう。

ここ最近そんなことが増えた。
客観的に目を向けられるようになったことで、周りや固定概念、輝かしいものに、惑わされて、ピュアな自分の部分を無視していた。

やりたい仕事ではないのに、社会から排除される恐怖から、一時的に仕事を選んでしまったり、snsでも大したことしか投稿しちゃいけないような気がして、考えて投稿するようになってしまったり、自由時間でさえも、何か意味のあること、価値のあることをしなければならないような気がして、気張ってしまったりする。

ずーっと、自分の中で構築された「周りの目」が勝手についてくるのだ。


社会の一員として「意味のあるもの」を探して出来上がったものには、意味はあるかもしれない。

社会にとっては。


でも経験上そういうものは、自分にとって意味もないことがほとんどだ。その証拠に、後悔が残る。あーしとけばよかった、こうしとけばよかった。なんて。



父から、大量に私の子供時代の時の写真が送られてきた。
一気に思い出が蘇ってきて、懐かしい気持ちになった反面、5歳の彼女に対して申し訳なくなった。


無邪気に笑ったり、泣いたり、遊んだりしている自分の心の思いゆくまま、突き進んでいた彼女を、今の私はずっと消そうとしてたんだ、とハッとした。


覚えている。みんながプリンセスごっこをしている中、私は大好きだった映画「こぎつねヘレン」に似たおままごことをしたくてしょうがなかった。
みんな戸惑いながらやってはくれたけれど、プリンセスごっこの方が圧倒的に支持されていた。

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大きくなるにつれて、自分が好きなこと、やりたいことと「はやっていること」「大半に人気なこと」がずれていることに気づき、それが仲間外れの原因になることの恐怖を小さいながらも感覚で学んだ。

その恐怖はいつの間にか私の中で膨張してて、固定概念となっていた。
逃げて逃げて逃げて、今は案外優しい世界の中にいるというのに、誰でもない自分自身、臆病な私が「でも周りがこう思ってたらどうしよう」とか「一人はこわいな」とか、自分の首を自分でしめてしまっている。

流れに沿って、着飾って、違和感を感じながらも、忙しく見ないふりをしている方が、正直簡単である。
自分を見つめるのって、怖い。正解がないのだから。自分の主張を見つめて、信じて、その上ルールの中で、社会の一員として、対比しながら、うまいことやりながら、進む道を見つけてかなければならない。

5歳の彼女は今の私なんかよりよっぽど強い。
今の私なんかより、自分を受け入れ、大切にしてあげてる。


こぎつねヘレンが好きなら、たとえ次のお遊戯会の題材はプリンセスでも、「好き」は「好き」で突き通せばいいのだ。


ずれを気にしなかったり、楽しむことができなければ、周りに飲まれ自分を見失う。

頭がいい人ほど、着飾る効率の良さと、「社会的な成功」を計算し、そちらに向かってしまう、ということをよく見てきた。

私は、お世辞にも頭がいいとは言えない。それなのに、5歳の頃のピュアな自分を「社会不適合者」だからと見捨てて、頭のいいふりをしてきたのだ。



私が私の一番の理解者であらなければ、私は私を嫌いになってしまうのに、「価値のないこと」と勝手に決めつけ、無かったことにしていた自分に不甲斐なさを感じた。

彼女が守ってきた「好き」を大人の私が受け取り道を見つけてあげよう。


そんなことを彼女の目を見て誓った。



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