タイのお寺に泊まってみた
7/20(日)はタイでは「カオパンサー(入安居)」と呼ばれる祝日。僧侶たちがお寺で修行に徹する3ヶ月間の始まりの日です。前日から村の方とご一緒させてもらったので、一部を紹介します。
前日:お寺に3度参拝
カオパンサー当日より、前日の方が予定が詰まっています。村の人は、5:00、11:00、15:00の3回お寺へ行きます。ただ、厳密ではなくて、3回来る人もいれば、1回しか来ない人も。また、遅刻する人も。厳しすぎない点が続ける秘訣なのではと思った(ちゃんと行かないとだめだけど)
また、村人がお寺に集まるこの機会にお布施を集めます。今回は村のお寺の屋根の改修費用として。金額は個人の自由、誰がいくらお布施したかはマイクでアナウンスされます。私は今回100バーツ寄付しました。
お寺に宿泊
カオパンサーの前日は、お寺に泊まる人がいるというので、私も泊まらせてもらいました。夜ご飯を食べ、シャワーを浴びてから、白い服に着替えます。
白は「穢れのない色」を意味しており、清浄や純粋を意味します。
お寺の滞在スケジュールは以下でした👇
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18:00 お寺へ、お経、
19:00 瞑想
20:00 自由時間、雑談
21:00 瞑想
22:00 就寝
3:30 起床、瞑想、掃除
5:00 お坊さんが来てお経
6:00 解散
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お寺宿泊の参加は個人の自由です。今回は6人の人が参加していました。男性4人、女性2人です。(村の人口は190人弱) 旦那さんは来ないけれど、奥さんだけ来る場合もあります。
お寺に泊まって感じたこと
村の年配男性はお経を覚えている。一般的な日本人はお経は「聞くもの」であると思うから、自分で唱えられるのは日本と違うと思った。
同じ村に住んでるとはいえ、食だけでなく、同じ場所に一緒に寝る機会も日本にはないと思った。
お経の本は、タイルー語版もあった。村の年配の方はタイルー語の本を読んでいた。ただ、若者はタイルー語を知らない人が多いので、このままだと読む人が消えてしまいそう。
(時と場合によっては)僧侶と村人はフランクに話をしている。お坊さんは私にもフランクに話しかけてくれて、お経の読み方を教えてくれた。
お寺のお坊さんもタイルー族の方(私がお世話になっている村はタイルー族)。ミャンマーシャン州のムンヨーン(=ムアンヨーン)出身。7歳からお寺で勉強を始め、9歳からお坊さんになったとのこと。ムンヨーンではお寺で学ぶことは誰でもできるが、勉強ができないと僧侶になることはできないとのこと。
印象に残った会話
①お寺で寝る理由
お世話になっているニーさん(ジョームさんの奥さん)の言葉が印象的でした。
女性だと学ぶ場が限られている?こともあるのだと思いました。その状況の中でも学ぼうとする姿勢には刺激を受けました。
読み書きができるということ
また、タイ語のお経の本があり、私が片言タイ語で読んでいると、「なおとは文字が書けるから早く覚えられる。私は文字が書けないから覚えるのに時間がかかる」とニーさんに言われました。
ハッとさせられた瞬間でした。自分の価値観だと現在のタイでは大半の人が基本的な読み書きはできると考えていました。ただ、タイ北部の少数民族には、文字を学ぶ機会が限られている(特に女性?)のだと気づき機会となりました。
仏教関連知識
タイではお参りの際に三度、おじぎをする。①仏陀(พระพุทธ)、②仏陀の教え(พระธรรม)、③お坊さん・僧侶(พระสงฆ์)の3つに対してのお辞儀。
ศีล สมาธิ ปัญญา(戒・定・慧)は、仏道修行に必要な三つの大切な事柄。悪を止める戒と、心の平静を得る定と、真実を悟る慧。
ศีล(戒):道徳的な戒めを守ること。他人を傷つける考えや行為を避け、心を清らかに保つための基本的なルール。五戒や八戒など。タイのお坊さんは、二二七の戒を守る。
สมาธิ(定):集中力や心の安定。心を一つの対象に集中させることで、欲望や煩悩を抑え、心を静かに保つ状態。
ปัญญา(慧):智慧。物事の真実を理解し、煩悩の根を断つための洞察力や理解力。
四無量心(しむりょうしん)または四梵住(しぼんじゅう)は、崇高で純粋な生活を送るための心の指針であり、他者と共に生きるための行動指針です。以下の4つの実践項目から構成されています。
慈悲 (เมตตา):愛情と思いやりを持ち、他者が幸せであることを願う心。
憐憫 (กรุณา):他者の苦しみを見て哀れみ、救い出そうとする心。
喜捨 (มุทิตา):他者の幸福を見て喜び、その成功や繁栄を心から祝う心。
平静 (อุเบกขา):偏りのない中立的な心を持ち、知恵をもって行動すること。
カオパンサー当日
カオパンサー当日は朝6時半からお寺に参拝しました。お経の後に、もち米やろうそく、お布施を献上しました。
カオパンサー当日のお寺訪問は早朝だけでした。
タイ語レベルは限られているし、仏教の知識も足りていないので、吸収できなかったこともたくさんありますが、新たなタイの文化に触れる良い機会となりました。