夜空に憲法をみつけよう

「憲法と法律の違いってわかる?」
「憲法は最高法規のなんたらだっけ。法律より偉い何か?」
「まあそうなんだけど、じゃあ『最高』とか『偉い』ってどういう意味だと思う?」
「うーん…例えば、憲法のルールと法律のルールがぶつかったときには憲法が勝つ、とか?」
「お、なかなかいい観点だね。だけどちょっと惜しい。そもそもその二つは同じ土俵にいるわけではないんだ。『法律というルールをどうやって決めるか』を決めるルールが憲法になっていると言えばいいかな」
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憲法というものを「なんかよくわからないけど法律より偉いもの」とか「基本的な法律」とか「道徳的な教え」と思ってしまっている日本人は少なくないだろう。特に最後のは聖徳太子の「十七条の憲法」のせいでイメージが混同してしまっているきらいはあるし、わざとその誤解が助長されている懸念もある。その意味ではconstitutionの訳として「憲法」という語をあてたのはいささか失敗だったのかもしれないが、既に定着しているので仕方ないだろう。

例え話をしよう。トランプの「大貧民」というゲームがある。子供の頃に遊んだ人は多いのではないだろうか。全国的にポピュラーなゲームだと思うのだが、地方ごとに「8切り」だの「縦縛り」だのといった派生ルールのバリエーションが多彩なゲームであるため、始める前にルールを確認しておかないとあとで揉めることになってしまうというややこしさを抱えたゲームでもある。
ところで、もしあのゲームで"大富豪"が途中でルールを変えることができたらどうなるだろうかーーまずほとんどの場合、「税金を上げる」だの「革命禁止」だのと大富豪が自分に都合のいいルールにどんどんと変えてしまって、他の人は誰も勝てなくなり、全くゲームにならなくなるだろう。

かつて、多くの君主主義専制国家は、それに近い社会だった。ルールを決めるのが君主なら、ルールを守っているかどうかを判断するのも君主であり、ルールを破ったものを罰するのも君主の権限であった。
この場合、運良く君主が賢く・将来のことを考えて判断し・国民の幸福のために行動するタイプの時代はいいが、残念ながら古今東西、そのような君主が続いた国はほとんどない。初代の君主が英雄で名君だったとしても、3代もすれば暗君がでてきて遊び呆けたり、側近にいいように唆されて好き勝手を始める。暴政によって経済が破綻するほどに国が傾いていき、最後は大抵、他の国に攻め込まれて滅んでしまう。

そのような歴史の中、まだ王政が敷かれていた時代のイギリスで、貴族や都市が団結して「王様といえども従わなければならないルールがある」というルールを決め、それを認めさせたのが近代の憲法の始まりと考えられている。そのルール、マグナ・カルタの条文の一つ「国民は国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない」は現在のイギリス憲法にも継承されている。

「法律を決めるルール」については面白い思考実験がある。普通ゲームのルールというものはゲームを始める前に決めてから始めるものだが、アメリカの数学者が"ノルム・ゲーム"という「ゲームの中でルールを変えていいゲーム」というものを提案したことがある。そのままでは先ほどの専制君主のようにすぐにゲームが壊されてしまうため、"メタルール"という定義を利用している。数学、とくに数理論理学の考え方では「様々に異なるルールからなる論理体系」を比較・整理する必要から、"メタ論理"と呼ばれるルールを記述するためのルール、という概念がしばしば扱われる。そこからの発想で「ルールを変更するためのルール」をあらかじめゲームのルールとは別に用意しておき、好き勝手に変更できるわけではないと決めておく仕組みである。ちなみに、メタルールを変更するための手続きというのも存在するのだが、これはメタルールの一部として設定されている。

現代の民主主義社会における憲法はこれとよく似た構造になっている。"法律"というルールを決めるのは議会の仕事で、法律を施行するのは政府の仕事であり、国民はそのルールに従って生活するが、そもそも「法律を決めるのが議会である」「政府が法律を施行する」といったルールを定めているのは憲法というメタルールであるため、国会も政府もそのメタルールに従わなければいけない。そしてその憲法を決めるのは国民自身であり、「政府は国民の自由や尊厳を侵してはならない」といった制限のための条文を明記することで、議員や大臣が専制君主のように私利私欲をむさぼったり、権力を乱用して国民を迫害したりすることを禁止している。

しかし、残念ながら、民主主義国家においても政府が憲法を骨抜きにしてしまい、独裁専制国家となってしまった例は少なくない。そしてそのもっとも直接的な例がナチスドイツだったと言えるだろう。大統領緊急令により"一時的に"憲法を無視できる権限をヒットラーが手にしたが、そのまま議会を無視して好き勝手に法律を変えるようになってしまった。権力者の言う"一時的に"は往々にして(自分の政権が倒れるまで)となるのはこれに限った話ではない。社会が疲弊すると国民はしばしば強いリーダーを求めるが、そうやって戴かれた指導者に対して国民が批判的になった時、権力者は自国民を分断し、弾圧し、その暴力はあっという間にエスカレートしていくことを歴史が何度も示している。

現在の日本国憲法を注意深く読むと、太平洋戦争の間に政府が国民を騙し、脅迫し、搾取したという暗い歴史を教訓に、そのような暴政を禁止するようにひとつひとつ予防線を張っていることがわかる。いくつもの条文において、かつて日本政府が国民を弾圧したような権力の使い方を縛り、当時の悲劇を起こさないための憲法となっている。
だがしかし、そのような現行の憲法に対し、自民党の改憲案ではそういった制約のある条文について、いちいち文言を変えていることがわかる。ぱっと一見しただけでは大した変更には見えないかもしれないが、もとの条文が作られた意味と、自民党案で変更している部分とを比較すれば、政府に対する制約を緩め、抜け穴を作ろうとしていることは明らかである。それも一箇所や二箇所ではなく条文全体に対して何十箇所もこの調子で変更しようとしているのだ。
それを見ると、自民党にとって改憲の目的は、現代の憲法をかつて権力に任せて好き勝手に国民を搾取できた頃の大日本帝国の憲法に戻し、言論の弾圧や国民からの搾取をとめられないように、また、他の政党や批判するジャーナリズムや文化人を力ずくで潰して自分たちの権力構造を磐石のものとすることに他ならないことがわかる。TVで報道されるような自衛隊や同性婚の議論はどちらかと言えば単なるおとり、目くらましにすぎないのだろう。もし本当に仮に改憲を議論するなら、その対象は一箇所の変更に限定してその是非を全国民に問わなければならないはずなのに、どこをどう変更するのかもあいまいに隠したまま改憲の必要性だけを煽っているのは、政府とマスコミ、一部の野党までもがグルになった大掛かりな詐欺そのものである。

このまま改憲が強行されれば、この国は遅かれ早かれ、かつてのナチスドイツや旧日本帝国、現在の北朝鮮やロシアと変わらない国になるだろう。数十年前に私たちの父祖が政府を止められずに太平洋戦争にまで至ったのは百歩譲って無知による悲劇だったとしても、それから3世代もしないうちに同じ連中に同じように騙されて時代を一世紀も逆行することになったとしたら、それはもはや笑えない喜劇として末代まで嘲弄されることになるのではないだろうか。
日本では「自分とその周りの身内だけが優遇されていれば、他の人間が不公平に晒されていても別に構わない、利益を上げるためなら人を平気で家畜のように扱う」そんな人間が長く権力を握ってきた。近年ではそれに共感する者が市井にも増えているような雰囲気も感じられる。だが、私の知る限り、このタイプの社会が長く成長できた例はない。ひと世代、せいぜい2, 30年かそこらは繁栄することもあるが、50年もすれば歪みと淀みが社会全体に蓄積し、陰惨な破綻を迎えるだろう。

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「…そんな未来は見たくないんだけど、何か回避する方法はあるの?」
「民主主義社会では、暴力や武力よりも人の"数"が一番大きな力だと言える。国民の半数以上がこの改憲は恐ろしいという認識を共有して世論を作り、デモや選挙で反対すれば、まだ防げる段階だ」
「でもマスコミがほとんど向こうに牛耳られているって言ってなかったっけ」
「そう。だから現状かなり不利になっているのは否定しない。でも、例えばSNSを改良した新しいコミュニケーションツールを普及させるといった方法で、草の根のネットワークをもっと広範囲に広げられる仕組みをつくる、といった方法で情報を共有することができれば、まるきり不可能というほどではないと思う。」
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憲法は万古普遍の決まりでもないが、時代の都合に合わせ、目の前のことを考えて安易に変えるものでもない。むしろ、50年後、100年後の将来、この国がどういう社会であって欲しいかを広く議論し、その実現を目指せるようにと考えて少しずつ修正していくべきものだ。

第二次世界大戦の後から現在にかけて、着実に成長し、社会を充実させてきた国は、どこも国民1人1人を大切にしている。そして日本国憲法を読めば、本来はその方向を目指して作られていたことがわかる。
民主主義はその名の通り国民が主人公となる社会であり、誰もが対等に互いを尊重することが求められている社会でもあるーーそれがどんな弱者であれ、例え自分が嫌いな人間であれ、その自由と尊厳を大切にする——そんな理想を実現する国にしていこうという意思が、そこには込められている。そのためにはどういう憲法が必要か、どのような考え方を大事にするべきか一人一人が日頃から意識し、意見を交換し、熟成させていくことができるかどうか、それが問われることになるだろう。そしてそうやって国民自らが認めた理想として誇り高く掲げられてこそ憲法がそのあるべき姿を示せるのだろう。

北を指し示す夜空の星座のように、たとえ今は遠い光であっても目指すべき方角がそこに示されていれば、道に迷ったとしても少しずつ前に進んでいくことはできるのだから。

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