誰が政治家を裁けるのか?
「法律を決めるのが国会議員なら『議員への賄賂は犯罪にならない』という法律を決めたらワイロを取り放題になるの?」
「そんな法律は違憲だと裁判所が判断すれば無効になるけど」
「裁判所が国会議員から賄賂をもらって癒着して無効にしなかったら?」
「何十万、何百万人単位のデモを起こして議員の罷免を要求する、とかかな」
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今日、「政治資金規正法には大穴があり、検察は与党に忖度している。権力者だけがズルを許されるのはおかしい」と多くの市民が憤っている。まさにこのような事態を防ぎ、正すためにこそ憲法が存在するのであり、国の「最高法規」とされている理由だということを、国民一人一人が理解するべきだろう。
日本国憲法をよく読むと、当時の識者は、いずれ自分たちだけに都合のいい法律をつくる権力者が現れることも、三権分立をすりぬける連中が出てくることも、十分あり得ると予期していたと考えられる。だからこそ「公務員を選定し、これを罷免することは、国民固有の権利である」と定義しているのだ。法律がザルだろうと、検察が動かなかろうと、十分な数の国民が立ち上がって辞めろと言えば議員を罷免させられると考えるべきだろう。辞任して欲しいとか説明を求めるとか下手に出る必要もない。「あんたらはクビだ」と宣告できると明文化されている。この権利は憲法に規定されているのだから、法律よりも、検察の判断よりも優先される。確かに乱用されると社会的に混乱する考え方だから自治体首長のリコールのようにわかりやすく制度化されているわけではないが、民主主義のプロセスとしては合理的だし、海外ではしょっちゅう起きている話でもある。
こんな時こそ、国民が公正さを求めて意見をあげ、憲法に則って不正を働く議員を追放しなければならないのではないだろうか。国民への奉仕者という立場を無視し、ルールを都合よくねじ曲げ、不当に権力を利用して私腹を肥やすばかりの政治家を一掃しなければならないはずだ。私たちにはこの国の立憲主義を「国民の不断の努力によつて保持」し、次世代に残す責任があるのだから。
そして憲法が権力者から国民を守るための制約であることを考えれば、自民や維新のように社会のルールを自分たちの都合に合わせてねじ曲げ、権力を私利私欲のためにしか使わない連中に憲法を変えさせてしまうのはヤクザに家の鍵を渡すに等しいことだと思わないといけない。実際、自民党の"改憲"案を読むと、現在の憲法が政府にかけている制限をごまかし、無効化するための変更ばかりであることはすぐに理解できる。現憲法にはかつての帝国政府が国民に対して行ったような支配と専横を禁止する項目がいくつもあるが、改憲案ではその文言をそこかしこで変更して意味を捻じ曲げ、制約を迂回する抜け道を作っている。"改憲"派が狙っているのは太平洋戦争時代のような、戦争の名の下に政府が好き勝手に国民を搾取し、弾圧して、権力を恣にできた社会を甦らせることに他ならない。
実際、今自民や維新を権力の座から追い払うことができなければ、彼らはありとあらゆる手段を使って憲法を壊しにくるだろう。金に糸目をつけずマスコミや有名人を使って世論を誘導し、情報を操作し、反対派を貶める工作をしかけてくるだろう。国民投票の結果そのものを操作したとしても驚かない。自衛隊の合法化や教育の無償化などはまったくの目眩しで、その影で政府にかけられた制約をうやむやにし、裏金作りや世論操作や人権弾圧を脱法化させてしまう条項を入れてくるだろう。
また、改憲の理由に憲法9条の「戦争放棄」を挙げ、自衛隊を合憲化するために改憲が必要とか外国が攻めてきたらどうするんだとかいったプロパガンダは昔から手を替え品を替え流されてきたが、憲法が「権力者を縛るためのルール」であると理解してもらえたならば、9条はそもそも「政府や軍部が勝手に戦争を始めること」から国民を守るための条文なのだと理解できるはずだ。
その意味で改憲案の中でもっとも危険なのは「緊急事態条項」であると言える。この条項は完全に憲法の意味を壊すための条項で、民主主義を停止して独裁国家を生み出すためのトリックだ。かつてこれと全く同じ方法で独裁政権を握ったのがナチスドイツであり、その結果いかなる惨劇が引き起こされたかはここで述べるまでもない。こんな条項を案として出している時点で壊憲派は最初から邪なもくろみを持った民主主義社会の敵と見なさなければなるまい。そんな連中には本来憲法のどこをどう変更するかなどと議論することすら許すべきではない。
もしあの連中が憲法を変え始めたら、この国は、現在すでに非難されているような不正と捏造、搾取と横領、迫害と弾圧の止めようがなくなり、それらが日常的に行われ続けるような惨めで時代錯誤な社会になってしまうだろう。一旦そうなったら、この国がまともな法治国家になるまで、いったい何世代かかるかわからない。一握りの権力者のために、何百万、何千万の国民が抑圧と貧困に苦しむことになるだろう。何万人もの命が絶望の中で失われることになるだろう。その多くは女性や子供、老人や障害者、外国人だろう。
日本人が強者に阿り弱者を踏みつける国民なのか、歴史を1ページも学ばず、現状維持に甘んじ、TVや新聞の誘導に流されるだけの民度しか持たないのか、それとも不正と非道に憤り公正と公平を守ろうとする道義心を持ち合わせている国民なのか、その本質が問われる時が来ている。
いつか将来、昭和の負の遺産たる帝国政府の遺臣たちを政界からきれいさっぱり洗い流し、市民自身の言葉で新しい憲法を議論できるようになった時、初めてこの国は戦後を終え、21世紀の民主主義国家として国際社会に参加できるレベルに達すると言えるのだろう。その時に将来の世代に胸を張って残せる社会を、我々は作り上げていく責務がある。
フィンランドのマリン首相は2020年の新年の祝辞で「社会の強さは、富裕層が持つ富の大きさではなく、最も弱い立場の成員がどれほど豊かで快適な生活を送れているかによって計るべきものである」という言葉を残した。ゲーム理論において提案された「ミニマックス原理」は、もっとも弱いところをカバーする戦略を取ることが、結果として得られる利得の期待値を上げることを示したが、この主張はそのアナロジーのように思える(蛇足ながら念のため付け加えておくが、最弱者"だけ"を引っ張り上げるという考え方ではなく、"最弱者が出ないように社会全体の幸福度を底上げする"という考え方が必要である)。
ベンサムやミルが主張した最大多数の最大幸福という考え方は確かに当時の社会の改善に寄与したが、結果としてポピュリズムの台頭と、多数派さえ押さえれば何をやっても文句は言わせない、という歪んだ民主主義の蔓延をもたらしてしまった。功利主義の行き着く先には、アーシュラ. K. ル=グィンが『オメラスから歩み去る人々』で描いたような、名状しがたい矛盾、解消しがたい悪夢が残り続けるだろう。
もし日本が憲法を改正するとすれば、21世紀の民主主義を導く規範として、マリン首相が掲げたような新しい原理ーーゲーム理論にあやかって「ミニマックス幸福の原理」とでも呼ぶべきだろうかーーを理想として掲げ、世界に示していくような、そんな新しい憲法をつくれる国になって欲しいと思う。
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